時には、人々はイエス様に従うことを先延ばしにします。なぜなら、「あとでできる」と思ってしまうからです。しかし、それには危険が伴います。
この箇所では、イエス様が十字架を前にして、覚悟を決め、叫ばれました。
父よ。御名の栄光を現してください。(ヨハネの福音書12:28a)
そして、天の父は、すべての人の前で答えられました。
わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。(28b)
イエス様の周りにいた人々は、その声を聞きましたが、正しく聞き取ることができなかったようです。
ある人々は、「雷が鳴ったのだ」と言いました。
また、別の人々は、「天使があの方に話しかけた」と言いました。
なぜ彼らは天の父の言葉を理解できなかったのでしょうか。
ヨハネはこのことを解説します。
それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。
「主よ。私たちが聞いたころを、誰が信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」
イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。
「主よ。彼らの目を見えないようにされた。また、彼らの心を頑なにされた。彼らがその目で見ることも、心で理解することも、立ち返ることもないように。そして、わたしが彼らを癒すこともないように。」
イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。(38-41)
私は以前の記事でこの箇所について説明しましたが、基本的に彼らが天の父の声を理解できなかった理由は、すでにイエス様に対して頑なな心を持っていたからです。
ある人々にとって、イエス様が以前大工の仕事をしていたという事実は、彼らの持つメシア像と一致しませんでした。
また、別の人々がイエス様を拒絶した理由は、イエス様が彼らを宗教的な偽善者として明らかにされたことでした。
さらに、イエス様の教えが彼らの伝統や宗教的な規則と対立していたため、それを理由にイエス様を拒む人々もいました。
そのため、イエス様が奇跡によってご自身のメシアとしての資格と、その言葉の真実性を証明されても、彼らは「悪魔の力によってその奇跡を行った」と言い張りました。
この箇所では、彼らはこう言いました。 「まさか、それが神様の声だとは思えない。ただの私の想像だろう。きっと雷の音に違いない。」
けれども、彼らが自分の目と耳を閉ざせば閉ざすほど、心はますます頑なになり、霊的にも盲目になっていきました。
そこで、イエス様はもう一度彼らに警告されました。
もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。
闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。(35-36)
要するに、「あなたの時間は限られています。すぐに心を開かなければ、永遠に盲目になってしまいます。まだ可能なうちに、私と私がもたらす光を信じなさい。」ということです。
イエス様は、あなたにも同じことを語っておられます。人々がイエス様のもとへ引き寄せられ、救われるために、イエス様は地上から上げられ、十字架にかけられました。
けれども、もしあなたが目と耳を閉ざし続けるなら、たとえ真理が目の前にあっても、それを認識することはできません。そして、そのときには、救いの機会は失われてしまいます。
だからこそ、パウロはこう語りました。
見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)
