この話では、イエス様は私たちがイエス様を拒絶する危険性について警告し続けておられます。
このたとえ話では、ある王が自分の息子のために結婚の披露宴を催し、多くの人々を招待しました。ところが、その日が来たとき、招待されたお客さんたちは様々な理由をつけて来ませんでした。
王はもう一度彼らにしもべを遣わしましたが、彼らは気にもかけず、自分の用事であちこちへ行きました。
さらに、ある人々はそのしもべたちを捕まえて、侮辱し、殺してしまいました。
この話は、以前のたとえ話と同じようにイスラエルを描写しています。
とはいえ、それだけではなく、この話は福音に対する多くの人々の反応も描写しています。
神様はご自身の国に入るように私たちを招待します。神様は私たちのためにすべてを整えてくださいました。私たちがしなければならないことは、ただその招待に応えることだけです。
それでも、多くの人々はその招待を軽んじて、自分の道を行き続けます。さらに、ある人々は神様のメッセンジャーを侮辱し、迫害します。
その結果はどうなるのでしょうか?裁きです。死です。
しかし、この話には驚くべきどんでん返しもあります。王は他の人々を招待し、彼らが来た後に披露宴が始まりました。
ところが、その中に婚礼の礼服を着ていない人がいました。彼は傍若無人で、その王の要求を無視し、普通の服を着ていました。そのため、その王は彼のところに行き、こう言いました。
友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。(マタイの福音書22:12)
その人には良い言い訳がなかったので、彼は「人が泣いて歯ぎしりする暗闇」に放り出されました。(13)
このように、多くの人々は神様の招待を聞き、神の国に入りたいと願います。けれども、彼らは神様の条件を認めず、自分の方法で入ろうとします。
では、神様の条件とは何でしょうか。それについては、ヨハネが私たちに教えてくれます。
その証とは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(第一ヨハネ5:11-12)
要するに、神の国に入りたいのであれば、イエス様を着る必要があるということです(ガラテヤ3:27)。
「イエス様を着る」とはどういう意味でしょうか。それは、イエス様をあなたの主として受け入れることです。
そうすることで、神様が私たちを見るとき、私たちの罪をではなく、キリストの義を見るのです。なぜなら、十字架でイエス様は私たちの罪の代価を支払ってくださったからです。
しかし、多くの人々はその条件を受け入れることを拒む傾向があります。彼らは自分の方法で神の国に入ろうとします。けれども、それでは神様の招待とイエス様の十字架の働きを軽んじることになります。
私たちはそのような行動を取るべきではありません。もしそうするなら、私たちは神様を侮辱することになるのです。
だからこそ、あなたには選択があります。あなたは神様の条件を受け入れ、神の国に入ることができます。または、自分の方法を選び、地獄に向かうことになります。他に選択肢はありません。
あなたはどうしますか。神様の条件を受け入れて、神様に近づこうとしますか。それとも、自分の方法で神様のもとに来ようとしますか。
