ある英語の子どもの歌は、サドカイ人たちをこのように描写しています。
I don’t want to be a Sadduccee.
(サドカイ人になりたくないよ。)
‘Cause, a Sadduccee is sad, you see.
(だって、サドカイ人たちは悲しい人たちだから。)
それは少しくだらないだじゃれですが、どこかに真実が含まれています。
最終的に、サドカイ人たちは希望を持たない人々でした。なぜなら、彼らは復活を信じていなかったからです。彼らは死を迎えると命が終わると考えていました。
その考え方は、神様に対する彼らの思いや、自分の人生観、そして聖書に対する理解に影響を与えてしまいました。
彼らは神様の力を理解しておらず、神様の愛も知りませんでした。また、神様が私たちと永遠に共に生きたいと望んでおられるという概念を全く持っていませんでした。
彼らは墓に入ると命が終わると考えていたため、この世のもの、つまり力とお金に執着していました。
このような考え方は、彼らの聖書の理解にも影響を与えました。彼らは聖書の最初の5冊(創世記から申命記まで)だけを神様の言葉として受け入れていました。預言者の書や詩篇などは神様の言葉として受け入れなかったのです。
そこで、彼らはイエス様のところに行き、パリサイ人たちを困らせた質問をイエス様に尋ねました。それはくだらない質問でしたが、その時代のユダヤ人たちの文化では、万が一(もしくは、億が一と言えるでしょうか)その話が現実になる可能性があると考えられていました。
サドカイ人たちはこう尋ねました。
先生。モーセは、「もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない」と言いました。
ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。
では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。(マタイ22:24-28)
それは非常にくだらない疑問に思えるでしょう。それは非現実的であり得ないと思われます。
ともかく、イエス様は彼らに対して非常に厳しく答えられました。
あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。(マタイ22:29-30)
そして、イエス様は出エジプト記の箇所を引用されました。
サドカイ人たちはその箇所をよく知っていたはずですが、彼らはその言葉を決して深く考えたことがなかったでしょう。だからこそ、イエス様の言葉は彼らに強い衝撃を与えたに違いありません。イエス様はこう言われました。
死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(31-32)
神様は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」とは言われませんでした。神様はこう言われました。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。今なお、わたしは彼らの神である。」
要するに、アブラハムやイサクやヤコブの魂は今も生きています。だから、イエス様はサドカイ人たちが受け入れていた聖書の箇所を用いて復活を証明し、彼らの議論を完全に打ち砕かれました。
それでは、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様を私たちが作った箱に閉じ込めることはできません。
しかし、サドカイ人たちは神様をそのような箱に閉じ込めてしまいました。彼らは神様の力を理解せず、神様が人々を復活させる力を持つことを信じなかったのです。
なぜ彼らは神様の力を理解できなかったのでしょうか。それは、彼らが聖書を正しく理解していなかったからです。
だからこそ、私たちはサドカイ人たちのようにならないように注意する必要があります。聖書を学び、その真意を理解するために努力しましょう。
もし聖書が神様についての私たちの考えに反することを語っているなら、サドカイ人たちのようにその言葉を拒否するのではなく、むしろ受け入れるようにしましょう。
そうすることで、私たちは神様をさらに深く知り、神様との親しい関係を築くことができるのです。
