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ヨハネの福音書 ヨハネ13章

私たちの模範

ヨハネの福音書13:1ー17

聖書では、神様はイエス様とその十字架の働きについて、さまざまな生々しい描写を与えてくださいました。

まず、神様はアダムとエバに、「やがて、ある者が蛇の頭を踏み砕く。しかし、その時、その者のかかとも傷つけられる」と約束されました。(創世記3章)

また、神様がアブラハムに、イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう命じられた場面があります。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に、神様は彼を止められました)(創世記22章)

さらに、神様の律法において、多くのいけにえや捧げものがイエス様を指し示していました。

それだけでなく、預言者イザヤはイエス様について詳しく預言しています(特にイザヤ53章)。ダビデの詩篇もまた、イエス様を指し示しています(例えば詩篇22篇)。

けれども、イエス様が十字架で死ぬ前に、もう二つの重要な描写を与えてくださいました。一つ目は、もちろん聖餐式です。(別の記事でそのことについて触れます。)

そして二つ目は、この箇所にあります。それは、とても美しい描写だと思います。

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を抜き、手ぬぐいを取っ手にまとわれた。(ヨハネの福音書13:4)

それは何の描写なのでしょうか。パウロはこう語りました。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:5-7)

イエス様は神でありながら、ご自身を空しくされました。もちろん、イエス様は依然として神でしたが、栄光の衣を脱ぎ、人間となられました。

それだけでなく、王として来られたのではなく、しもべのかたちを取られました。

パウロは続けてこう言いました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。【ピリピ2:8)

イエス様がご自身を低くされ、弟子たちの足を洗われたように、イエス様はさらにご自身を低くされ、十字架で死なれました。その結果、今、私たちの罪はイエス様の血によって洗われています。

だから、ペテロがイエス様の奉仕を遠慮しようとしたとき、イエス様はこう語られました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(ヨハネ13:8)

要するに、「ペテロ、あなたは私のたとえを妨げています。私があなたの足を洗うように、私はあなたの心を洗わなくてはなりません。もし私があなたの罪を清めなければ、あなたは私と関係がなくなってしまいます。」ということです。

イエス様は彼らの足を洗われた後、上着をまとい、再び席に戻って、彼らの主として振る舞われました。

そのようにして、パウロはこう語りました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエス様の名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ2:9-11)

イエス様が弟子たちに問いかけられたように、今も私たちに同じ質問を投げかけられます。

わたしがあなたがたに何をしたのかわかりすか。(ヨハネ13:12)

あなたは理解しているでしょうか。

あなたの罪が許されるために、イエス様が何を捨て、何をささげられたのかを分かっていますか。

もしそれを理解しているなら、イエス様はあなたにこう語られます。

あなたがたは私を「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。その通りなのですから。

主である、師でああるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたにも範を示したのです。。。

これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:13-15、17)

イエス様は私たちの模範です。イエス様はしもべとして歩まれました。そして、イエス様は私たちをご自身のように生きるように招いておられます。

あなたは、しもべとして歩んでいるでしょうか。

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