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ヨハネの福音書 ヨハネ15章

愛の戒め

ヨハネの福音書15:12-17

私たちクリスチャンが「互いに愛し合いなさい」というイエス様の戒めの意味を本当に理解できているのか、私は疑問に思います。

ひとつの意味は、愛がただの感情ではないということです。

神様でさえ、私たちに自分の感情を変えるよう命じることはできません。

例えば、私があなたに「私に怒りなさい」と言っても、あなたに怒る理由がなければ、怒ることはできないでしょう。

けれども、私があなたを殴れば、当然すぐに怒るでしょう。なぜなら、怒りは感情だからです。私たちの状況によって、怒りは自然に湧き上がります。

また、落ち込んでいる人に「元気になりなさい」と言っても、その人は急に嬉しくなることはないでしょう。私たちは状況によって喜びを感じるからです。

しかし、イエス様は私たちに「互いに愛し合いなさい」と命じられます。

もし愛がただのセンチメンタルな感情であるならば、イエス様は「愛し合いなさい」と命じることはできなかったでしょう。なぜなら、愛は周りの人々との関係によるものだからです。仲が良ければ愛せますが、そうでなければ愛せません。

では、愛とは何でしょうか。それは、私たちが相手を価値ある存在としてみなし、その態度をもって接することです。

イエス様はそのような愛の最高の表現を示されました。

人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きいな愛は誰も持っていません。(ヨハネの福音書15:13)

つまり、最高の愛とは、自分自身よりも相手を大切にすることです。

イエス様は私たちにそのような愛を示してくださいました。イエス様は天を離れ、この世に来られ、私たちの罪のために死んでくださいました。その愛は、私たちが受けるべき罰を代わりに背負われるほどのものでした。

だから、イエス様が私たちを大切にされたように、私たちも周りの人々を大切にするべきです。彼らのために命を捨てるほどに、私たちは彼らを愛するべきです。

「でも、それは無理でしょう。あなたは私が毎日どんな人を扱わなくてはならないか知らないでしょう。私自身を彼らのために犠牲にするべきでしょうか。そんなに彼らを大切にするべきでしょうか。」

はい、そのとおりです。

けれども、それができるようになるためには、新しい心が必要です。そして、私たちがぶどうの木に繋がってこそ、その変化は可能となるのです。

あなたが神様の愛を受けると、失敗や罪があっても、神様があなたを愛してくださることが分かります。その神様の愛を理解すると、相手の失敗や罪があっても、あなたは彼らを愛せるようになります。

とはいえ、イエス様に繋がらず、神様の愛を常に受けていないなら、相手にそのような愛を示すのは難しいでしょう。

あなたの周りに、愛するのが難しい人がいるでしょうか。正直に言うと、私の周りにもそういう人がいます。

けれども、愛はただの感情ではありません。愛は選択です。

しかし、神様の私たちへの愛を理解していなければ、私たちはそのような選択をすることはできません。

だからこそ、神様に近づきましょう。私たちが神様の愛に根ざすことができるように。そうすると、神様の愛が私たちを通して流れ、私たちは愛の実を結ぶのです。

この世は、そのような愛を必死に探しています。

あなたは、どうしますか。

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