この話では、私たちはイスカリオテのユダの死について知ることができます。
イエス様が死刑を宣告されたのを見て、ユダは深く後悔し、祭司長たちと民の長老たちの元へ行き、こう言いました。
私は無実の人の血を打って罪を犯しました。(マタイの福音書27:4)
そして、ユダは受け取ったお金を返そうとしましたが、祭司長たちや長老たちはそのお金を受け取ることを拒みました。そのため、ユダはそのお金を神殿に投げ込んで立ち去り、その後、首を吊りました。
コリント人への手紙第二7章で、パウロは二種類の悲しみについて語っています。パウロはこう書きました。
神様のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます。。。(7:10a)
ペテロも同じような悲しみを経験しました。彼はイエス様を知ることを三度否定し、深い悲しみに包まれました。それでも、彼は悔い改め、赦されて、イエス様の弟子としての役割に戻ることができました。
それに対して、ユダは決して悔い改めることはありませんでした。もちろん、彼は自分の行為の結果を後悔しました。しかし、神様からの赦しを求める代わりに、ユダは自ら命を絶ちました。
パウロはこのような悲しみを「死をもたらす悲しみ」と呼びました。(第二コリント7:10b)
残念ながら、多くの人々はユダのような悲しみを経験しています。
彼らは自分の行為によって生じた悪い結果を目の当たりにし、赦される希望を持てないと感じています。その行為があまりにも重大であるため、神様が自分を赦すことなどできないと思い込んでいるのです。
私たちはそのような人々のために何をしているのでしょうか。
祭司長たちはユダに、神様からの赦しを知る手助けをするべきでした。ところが、彼らはそうしませんでした。むしろ、ユダの悲しみを見て、「で?もしあなたが悪いことをしたなら、それは自分の責任だ。私たちには関係ない。」と言い放ちました。
もちろん、祭司長たちは罪深い心を持っていたため、ユダを助けることができませんでした。ユダを助けるためには、彼ら自身の罪を認める必要があったでしょう。しかし、彼らは自分の罪を認めたくありませんでした。
皮肉なことに、そのお金が「血の代価」であるため、彼らはそのお金を神殿の金庫に入れることはできないと思いました。実際には、彼らは自分たちの罪を自覚していたのでしょう。
それでもなお、神様の祭司として、私たちは罪に苦しんでいる人々を助けるべきです。私たちはその役割を果たしているでしょうか。私たちは、彼らが悔い改めれば、神様が赦してくださることを伝えているでしょうか。
あるいは、彼らの苦しみに対して、私たちはむしろ喜んでいるでしょうか。「それはあなたの責任だ。身から出た錆だ。私に助けを求めるな。」と冷たく言い放っているでしょうか。
イエス様はペテロに厳しく責める権利を持っておられました。それどころか、ペテロだけでなく、すべての弟子たちに対しても、同じように責めることができたはずです。
けれども、イエス様はその代わりに、彼らに恵みを与えられました。神様からの赦しを示されたのです。その結果、彼らは悔い改め、人生が根本から変えられました。
イエス様は、私たちが周囲の人々に対しても、同じように恵みをもって接することを望んでおられます。あなたは、そのように行動しているでしょうか。
