全ての福音書を読むと、ユダヤ人たちの「十字架につけろ」という叫びは、私の心を深く揺さぶります。
イエス様はその言葉を聞いて、心から悲しまれたことでしょう。なぜなら、イエス様はその人々を本当に愛していたにもかかわらず、彼らはそのようなひどい言葉を叫んだからです。
ピラトはその言葉を聞き、無力を感じながら、群衆の前で手を洗い、こう言いました。
この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。(マタイの福音書27:24)
その群衆はそれを聞き、こう答えました。
その人の血は私たちや私たちの子供らの上に。
最終的にユダヤ人たちはその行為のゆえに苦しむことになりました。
彼らが自分のメシアを拒絶したため、西暦70年にローマの将軍タイタスがエルサレムを破壊し、多くのユダヤ人とその子供たちが殺されました。もちろんタイタスがその剣を振るいましたが、それはユダヤ人に対する神様の裁きでした。
けれども、ピラトと群衆の言葉について考えると、二つのことが私の心に強く響きます。
一つ目は、私たち全員がイエス様の死の責任を負っているということです。イエス様は私たちのために死なれたからです。
もし私たちが神様を拒絶しておらず、罪を犯していなかったならば、イエス様が死ぬ必要はなかったでしょう。したがって、イエス様の血はその時代のユダヤ人だけではなく、私たち全員の上にあるのです。
パウロはこのように書いています。
全ての人は罪を犯し「ました」。(ローマ3:23)
だから、ピラトとは違って「私には責任がない」と言える人は誰もいません。私たち全員がその責任を負っているのです。
とはいえ、「イエス様の血は私たちの上に」という言葉には、もう一つの重要な意味を見いだせると思います。(これが私の二番目のポイントです。)
もちろん、群衆が意味したのは「イエス様の死は私たちの責任だ」ということでした。
けれども、皮肉なことに、イエス様の血は私たちを覆い、私たちの罪を清めてくださるのです。私たちがイエス様を信じるなら、その血は私たちの罪を覆い、神様の目において私たちは義と認めてくださいます。
へブル人への手紙の著者は次のようにイエス様について書いています。
また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、体をきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(へブル9:12-14)
だから、私たちの救い主に叫びましょう。
「あなたの血が私たちの上にあります。私たちは罪を犯したので、あなたの死の責任を負っています。
けれども、どうかあなたの血が私たちを覆ってください。あなたの恵みと憐れみによって、私たちを清め、赦し、完全にしてください。」
