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ヨハネの福音書 ヨハネ19章

自分の苦しみを脇へ置くことができる?

ヨハネの福音書19:25-27

私たちがどれほど自己中心的であるかを知りたいなら、悲しんでいるときの自分の反応を見るべきです。試練に直面し、苦しんでいるとき、私たちは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。

自己憐憫に浸るのは、ごく自然な反応かもしれません。

「どうして私はこんな試練に向き合わなければならないのか。いつまで苦しみ続けるのか。」——そう考えるのは普通のことです。

けれども、私たちが十字架を見るとき、イエス様は自分自身よりも、周りの人々に焦点を当てておられたことに気づきます。イエス様は一人の犯罪人を憐れみ、敵のために祈り、そしてこの場面では、母マリアへの深い愛を示されました。

マリアは十字架のもとで涙を流していました。彼女の長男は、ひどい罰を受け、死のふちに立たされていました。しかし、マリアの他の子どもたちは十字架の近くにはいなかったようです。

もしかすると、彼らはイエス様が狂っている(マルコ3:21)と思い、彼が家族に恥をかかせたと感じたのかもしれません。

だからこそ、他の息子や娘の姿はなく、マリアは十字架のもとで一人涙を流していました。家族からの慰めはありませんでした。

そのとき、イエス様は愛する弟子(おそらくヨハネ)を見て、マリアにこう言われました。

女の方、御覧なさい。あなたの息子です。(ヨハネの福音書19:26)

(当時、「女の方」という表現は、非常に丁寧で敬意を込めた言葉でした。)

そして、イエス様はヨハネにこう言われました。

御覧なさい。あなたの母です。(27)

その後、ヨハネはマリアを自分のもとへ引き取りました。

イエス様は、ご自身の苦しみだけを考える権利があったでしょう。彼は無実でした。この苦しみを受ける理由は何もありませんでした。

それでもイエス様は、自らの苦しみを脇へ置き、周りの人々を見て、愛を示されました。

あなたはどうでしょうか。

かつて、私の牧師の奥様は本当に素晴らしい方でした。私が知り合った人の中でも、彼女は最も愛を示す人の一人でした。彼女は亡くなるその日まで、変わることなく愛を示し続けました。

彼女はがんにかかり、少しずつ健康を失っていきました。最終的には、自分のベッドにずっといる状態となり、周りの人々が彼女を介護する必要がありました。それでも、彼女は自己憐憫に浸ることはありませんでした。

最後まで、彼女は介護してくれる人々にイエス様の愛で触れようとしていました。

もちろん、彼女は完全な人ではありませんでした。きっと、気が沈むこともあったでしょう。それでも、イエス様のように、彼女は自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々に愛を示しました。

あなたはどんな苦しみを経験しているでしょうか。どんな試練に直面しているでしょうか。

あなたは何に焦点を当てるでしょうか。自分自身でしょうか。それとも、あなたは自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見ることができるでしょうか。

苦しみの中で自分自身に焦点を当てる心は、その苦しみに留まり続けます。しかし、自分の苦しみを脇へ置き、周りの人々のニーズを見る心は、苦しみを越えて、もう一度喜びを見いだすのです。

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