私が大嫌いなことの一つは、税金を払うことです。毎年、私は税務署に行き、確定申告を提出します。その後、一か月ほどして税務署が少しお金を返してくれます。しかし、その直後には市民税や県民税を支払わなくてはなりません。
私はいつも一括払いで税金を支払います。もちろん分割払いも選択できますが、一括払いの方が自分には合っていると思います。そうすれば、次の年まで税金のことを考えなくても済むからです。
十字架の上で、イエス様の最後の言葉は、まるでその税金を支払うイメージを描写しているようでした。
12時になると、暗闇が全地を覆いました。そして15時ごろまで、その暗闇は続きました。おそらくその間に、神様は私たちの罪をすべてイエス様に負わせたのではないでしょうか。
その暗闇は罪の象徴だったのでしょう。罪によって霊的な暗闇がこの世にもたらされましたが、天の父はその罪をイエス様に負わせられました。
そして、15時ごろ、イエス様は叫ばれました。
わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)
その瞬間、おそらく天の父は、私たちの罪をイエス様に負わせ、イエス様に背を向けられたのではないでしょうか。それにより、天の父とイエス様との関係は初めて壊れてしまったのでしょう。
そしてイエス様は私たちが本来受けるべき罰を経験されました。つまり、イエス様は天の父から離れられたのです。
イエス様は完全な愛の源、喜びの源、そして命の源から離れられました。
そのような状態はまさに地獄そのものです。イエス様は実際に地獄に行かれたわけではありませんが、ある意味で地獄を経験されたのです。イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。
そして、死を迎える直前、イエス様は天を仰ぎ、祈られました。
完了した。父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。(ルカ23:46;ヨハネ19:30)
「完了した。」
イエス様の時代、ユダヤ人たちが税金を支払うと、ローマ人はその言葉を請求書に捺印しました。その意味は、「全額が支払われた」ということです。
イエス様の死によって、私たちの罪のためのすべての負債が支払われました。
その結果はどうでしょうか。私たちは神様との新しい関係を持つことができるようになりました。神様は至聖所と聖所の間にかかっていた神殿の幕を、上から下まで真っ二つに裂かれました。(マルコ15:38)
その理由は何でしょうか。
その行為を通して、神様は私たちにこう語られたのです。「私たちの間にあった障害は破られた。イエス様を通して、あなたは私に近づくことができる。」
イスラエル人が経験したように(出エジプト記20:18-21)、私たちはもはや神様から遠くに立つ必要はありません。
むしろ、私たちは神様に近づくことが許されています。
だから、神様に近づきましょう。
へブル人への手紙の著者はこう述べています。
こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19-22)
