この箇所を読むと明らかなのは、イエス様の死が偶然ではなかったということです。また、イエス様の死は神様の間違いでもありませんでした。むしろ、神様はこの時が始まる前から、私たちの救いを計画しておられたのです。
皮肉なことに、祭司長たちがイエス様がメシアであるしるしを求めたとき、イエス様は確かにそのしるしを与えられました。けれども、彼らはそのしるしを認識することができませんでした。
彼らはイエス様に十字架から降りるように挑戦しましたが、イエス様は預言の成就を示されました。
そして、イエス様は叫ばれたのです。
わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)
祭司長たちは、イエス様がエリヤという預言者を呼ばれているのだと思いました。しかし、実際にはイエス様は彼らに詩篇22篇を指しておられたのです。なぜでしょうか。それは十字架の上でイエス様がダビデによって書かれた言葉を成就されたからです。
十字架の上で、イエス様は侮辱され、軽蔑されました。驚くべきことに、祭司長たちは知らず知らずのうちにダビデの詩篇を引用していたのです。詩篇22篇において、ダビデの敵はこう語りました。
主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。(詩篇22:8)
祭司長たちはイエス様について、こう言いました。
彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。「わたしは神の子だ」と言っているのだから。(マタイ27:43)
ダビデの時代には、十字架という刑罰はまだ存在していませんでした。それにもかかわらず、ダビデは十字架による死を生々しく描写しました。ダビデはこう語りました。
水のように 私は注ぎ出され、
骨はみな外れました。(詩篇22:14a)
実際には、十字架にかけられた人々の骨の関節がしばしば外れたとされています。
そして、ダビデはこう語りました。
心はろうのように
私のうちで溶けました。(詩篇22:14b)
ヨハネによれば、兵士がイエス様の脇腹を槍で突き刺したとき、血と水が流れ出ました。現代の医師によれば、その血と水が流れる現象は、心不全の兆候である可能性があるとされています。
さらに、ダビデはイエス様が喉が渇くことについても預言していました。
舌は上あごに貼り付いています。(詩篇22:15)
さらに、ダビデはイエス様の手と足が刺されることについても預言しました。(ダビデは釘ではなく、犬の歯や、場合によってはライオンの歯のような描写を使用しています。詳細については詩篇22篇の13節をご覧ください。)
犬どもが私を取り囲み
悪者どもの群れが私を取り巻いて
私の手足にかみついたからです。(詩篇22:16)
さらに、十字架にかけられた人々は、自分の胸郭を見ることができたとされています。
ダビデはそのような状況についても詩篇の中で描写しました。
私は自分の骨をみな数えることができます。(紙片22:17)
さらに、ダビデは兵士たちがイエス様の服をめぐって賭けをすることについても預言されました。
彼らは私の衣服を分け合い
私の衣をくじ引きにします。(詩篇22:18)
それらの預言はイエス様を指していました。祭司長たちは聖書をよく知っていましたが、それを認識することができませんでした。
ヨハネは他の聖書の箇所も参考にしています。詩篇34篇と69篇、またゼカリヤ書12章もイエス様のことを指しています。
さらに、イザヤ書53章は特に具体的にイエス様のことを指しています。
イエス様は私たちの背きのために刺されました。また、イエス様は私たちの罪のために砕かれました。(5節)
証人たちがイエス様に言いがかりをつけたにもかかわらず、イエス様は何も言われませんでした。(7節)
イエス様は自分の敵のためにとりなしをされました。(12節)
イエス様は悪者たちと一緒に葬られるはずでしたが、最終的にお金持ちの人のお墓に葬られました。(9節)
そして、イエス様はよみがえられました。(10-11節)
だから、私はもう一度言います。イエス様の死は偶然ではありませんでした。時間が始まる前に、天の父はイエス様の死、そして私たちの救いを計画しておられたのです。
ですから、イエス様の十字架の御業を当たり前のものだと決して思わないでください。むしろ、感謝を持って、私たちの救いのため、またイエス様が支払われた代価のために、天の父をほめたたえましょう。
