ちょっと考えてみると、これは非常に面白い聖書の話です。
パリサイ人たちや祭司長たちは、弟子たちがイエス様の遺体を盗み、イエス様がよみがえられたと宣言することを懸念しました。そのため、彼らはピラトにイエス様の墓を警備するよう頼みました。
ピラトはその依頼を受け入れ、番兵を派遣しました。
ところが、三日目に地震が起こり、天使がイエス様の墓を覆っていた石を転がし、その石の上に座りました。番兵たちはその光景を目撃し、恐怖のあまり気を失いました。
パリサイ人たちや祭司長たちが混乱し、苛立っている様子を想像してみてください。おそらく、彼らは互いにこう問い合ったでしょう。
「どうして私たちは番兵を頼んだのだろう?空っぽの墓をどう説明すればいいのだろう?番兵たちが眠ったという話を信じる人はいないし、弟子たちが番兵を倒したという話も信じられるはずがない。一体どうしたらいいのだろう?」
この話から、私たちは重要な教訓を学ぶことができると思います。
人々は、神様の計画を妨害したり、自分の目的を果たそうとしたりして、さまざまな計画を立てることができます。
しかし、最終的には神様の計画を妨害することはできません。神様の目的は確固として立ち続けます。
多くの人々は人間の自由意志と神様の主権に関して疑問を抱くことがあります。私はそのすべての答えを持っているわけではありませんが、この箇所を通して、私たちはその答えの一端を見ることができると思います。
パリサイ人たちと祭司長たちは、自分たちの自由意志によって番兵を頼みました。神様はその選択を阻止することはありませんでした。
けれども、彼らが選択をした後、神様はご自身の選択をされました。
神様はイエス様を復活させ、石を転がし、番兵たちに恐怖を与えました。
このように、神様は私たちの選択を許してくださいます。しかし、その後、神様はご自身の選択をされます。だからこそ、私たちは神様の計画を妨害することはできません。
パリサイ人たちと祭司長たちはイエス様のお墓で神様の計画を阻止することができませんでした。そして、これからも神様の計画を妨害できる人は誰もいないでしょう。
だからこそ、確信を持って神様を賛美しましょう。神様はすべてを支配しておられ、その計画は必ず成し遂げられるからです。
