これは、聖書の中で私が特に好きな話の一つです。主人公はペテロ――自信満々なペテロ。大胆なペテロ。
それでも、ペテロはイエス様を知っていることを三度否定しました。その瞬間、彼の自信も、大胆さも失われました。もしかすると、彼は自分自身すら信じられなくなったかもしれません。
復活後、ペテロとイエス様の最初の会話を読んでみたいと思います。残念ながら福音書にはその詳細な会話は記されていません。
ペテロはイエス様の墓へ行ったとき、イエス様の遺体が見つからず、激しく困惑したことでしょう。「ヨハネは、イエス様がよみがえられたと信じている。でも、本当にそれが事実なのだろうか?」
もしかすると、ペテロはこう思ったかもしれません。
「正直、ある意味では、それが本当じゃないほうがいいかもしれない。だって、もし本当なら、私はどうやってイエス様と向き合えばいいのだろうか。」
けれども、突然イエス様はペテロの前に現れました。
ペテロはどう反応したでしょうか。驚きでしょうか。喜びでしょうか。それもあるかもしれません。
もしかすると、ペテロはイエス様のもとにひれ伏し、涙を流しながら何度もこう叫んだのではないでしょうか。
「ごめんなさい……どうか赦してください。」
多分、イエス様はペテロにこう言われたことでしょう。
「大丈夫だ。赦してあげよう。私はあなたのような人々のために十字架で死んだのだから。私は今も変わらず、あなたを愛している。」
それを聞いて、ペテロは慰められたかもしれません。けれども、すぐに疑いが心に浮かんだのではないでしょうか。
「まさか、本当にイエス様は私を赦してくださったのか?たとえ赦されたとしても、イエス様は私を弟子としてもう受け入れられないのではないか?私の失敗はあまりにも大きすぎる。。。」
そして、数日が経ちましたが、ペテロはイエス様と再び会うことがありませんでした。そのため、彼の心は再び沈んだことでしょう。
「やはりダメなのか。。。イエス様は『赦してあげよう』と言ってくださった。でも私はもう、イエス様の弟子として歩み続けることはできないのではないか。元の生活に戻るしかないのだろうか…。」
そこで、ペテロは他の弟子たちにこう言いました。
「私は漁に行く。」
他の弟子たちも、おそらく少し退屈していたので、ペテロと共に漁に出ました。ところが、夜通し漁をしても、何も捕れませんでした。
もしかすると、ペテロの気持ちはさらに沈んだのではないでしょうか。
「私はもう、何をやってもダメだ。。。魚を捕ることすらできない。」
そして、彼らは岸辺から声を聞きました。
「おい!食べる魚がないみたいだね。船の右側に網を打ってみなさい。」
弟子たちがその言葉通りにすると、突然、彼らの網は魚でいっぱいになりました。それを見たヨハネは叫びました。
「あれは主だ!」
ペテロはヨハネの言葉を聞くと、すぐに湖へ飛び込み、イエス様のもとへ泳いでいきました。ペテロが岸に着くと、イエス様は微笑みながら言われたことでしょう。
「ペテロ、何をしているのだ。他の弟子たちを助けなさい。」
ペテロは船に戻り、弟子たちと共に魚を岸辺まで持ってきました。彼らが到着すると、イエス様はすでに魚を焼いて、彼らのために食事を用意されていました。
彼らが食べながら、きっと笑ったり、様々なことを語り合ったりしたでしょう。けれども、食事が終わると、イエス様はペテロに言われました。
「ペテロ、少し話がある。こちらへ。」
その言葉を聞いて、ペテロは内心ひやひやしていたかもしれません。
「やはり。。。イエス様は私を責め、私を捨てるのだろう。弟子としての私の歩みは、もう終わりなのだろうか。。。」
不安を抱えながら、おどおどとペテロはイエス様と共に歩き始めました。もしかすると、無言のまま何分も散歩したかもしれません。そしてついに、イエス様はペテロに問いかけました。
ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、私を愛していますか。(ヨハネの福音書15:15)
新改訳では、「この人たちが愛する以上に」と書かれています。しかし、実際にイエス様の言葉は、それほど明確ではありませんでした。
イエス様が語られたのは、こういうことです。
「これらよりも、私を愛していますか。」
多くの聖書学者によれば、おそらくイエス様は他の弟子たちについて話していたのだろうと考えられています。そのため、新改訳では「この人たちが愛する以上に」と訳されています。
けれども、ペテロの答えを考えると、その解釈には納得できない部分があります。
ペテロはこう答えました。
「はい。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」
ペテロは、自分がイエス様を三度否定したことを痛烈に覚えていたはずです。それにもかかわらず、どうして「はい」と答えることができたのでしょうか。
だから、私は異なる視点を持っています。
もしかすると、彼らが歩いているとき、ペテロの船や網、魚が視界に入ったかもしれません。
もしそうなら、イエス様の問いかけの意味は、こうだったのではないでしょうか。
「ペテロ。このものよりも、私を愛していますか?私はほんの少しの間、あなたのもとを離れた。それなのに、その間にあなたはすぐに元の生活へ戻ってしまった。本当に、これらよりも私を愛しているのか?」
この問いかけに対して、ペテロは迷いなく答えたはずです。
「はい。あなたを愛しています。」
すると、イエス様は答えられました。
わたしの子羊を飼いなさい。(15)
彼らはしばらく歩き続けると、イエス様は再び問いかけられました。
「私を本当に愛しているのか?」
ペテロはもう一度「はい」と答えました。
すると、イエス様は言われました。
わたしの羊を牧しなさい。(16)
彼らはしばらく歩き続けると、イエス様はもう一度問いかけられました。
「ペテロ、私を愛しているのか?」
この問いを聞いて、ペテロの心は痛みました。
そこで、ペテロは答えました。
主よ。あなたはすべてをご存知です。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。(17a)
イエス様は答えられました。
わたしの羊を飼いなさい。(17b)
そしてイエス様は続けてこう言われました。
まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。
しかし、年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。(18)
イエス様はペテロの死を預言されました。そして何年か後、ペテロはイエス様への信仰ゆえに、十字架で死ぬことになります。
どうしてイエス様は、そのことをペテロに伝えられたのでしょうか。おそらく、イエス様はこう言いたかったのではないでしょうか。
「ペテロ。私は、あなたが犯した大きな失敗をよく知っている。それでも私は変わらず、あなたを信じているのだ。
実は、あなたは将来、同じような試練に直面することになる。そのとき、あなたは再び選択を迫られる。私を否定するのか。あるいは、私のために命を捧げるのか。
しかし、今度はあなたは、私のために死ぬことを選ぶのだ。」
そして、イエス様はペテロに言われました。
私に従いなさい。(19)
ペテロのように、私たちも皆、失敗することがあります。そのたびに、ペテロと同じように思うかもしれません。
「私は大失敗した。神様は私なんて受け入れてくださるのだろうか。」
しかし、安心してください。
神様はあなたを受け入れ、今もあなたを用いられます。なぜなら、神様はあなたの現在の姿だけを見ているのではなく、あなたが将来どのようになるかをよくご存じだからです。
神様はあなたを信じておられます。
だから、自分の力に頼らないようにしましょう。
また、自分の知恵に頼らないようにしましょう。
神様があなたを受け入れ、あなたを信じておられることを覚え、心を安らかに過ごしましょう。
そして、歩みましょう。イエス様に従いましょう。
