数年前まで私は、マタイ28:16-20の出来事と使徒の働き1章の出来事が全く異なる時に起こったことだと気づいていませんでした。
マタイの出来事はガリラヤで起こり、使徒の働きの出来事はオリーブ山で起こったのです。
もしかすると、ガリラヤでイエス様は11人の弟子たちだけではなく、500人の弟子たちにも現れたのかもしれません。(第一コリント15:6)
そのため、ガリラヤに来た時、「疑う者たちもいた」。(17)
つまり、11人の弟子たちはすでによみがえられたイエス様を見ていましたが、その500人はまだイエス様を見ていなかった可能性があります。
けれども、イエス様に会うと、彼らの疑いは消え去り、イエス様は彼らにこう言われました。
わたしには天においても地においてもすべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。
見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイの福音書28:18-20)
イエス様が単に「福音を述べ伝えなさい」と言わなかったことには重要な意義があると思います。(もちろん彼らには福音を述べ伝える役割もありました。)
イエス様は彼らに「弟子を作りなさい」と言われました。その弟子たちは自分の弟子を作るのではなく、イエス様の弟子を作るべきでした。では、弟子を作る方法は何だったのでしょうか。
彼らは新しい信者にバプテスマを授けました。バプテスマは、彼らがイエス様に従う決意を示すしるしでした。
私たちがバプテスマを受けるとき、私たちはキリストに属することを表現しています。バプテスマの水は墓を象徴しています。その水に入るとき、私たちはこう宣言しているのです。
「イエス様が死んでよみがえられたように、私は自分の古い生活に対して死に、新しい人としてよみがえります。そして、私の体が死んでも、私はよみがえってイエス様と共に永遠にいます。」
時折、日本ではノンクリスチャンの親が、クリスチャンである息子や娘にこう言うことがあります。「教会に行ってもいいけれど、バプテスマを受けてはだめです。」
そのため、その息子や娘は本当に困ります。「私の家族を怒らせても、洗礼を受けるべきなのだろうか。」
実は、使徒の時代にも、多くのユダヤ人たちが同じようなプレッシャーに直面していたかもしれません。しかし、イエス様の弟子になりたいのであれば、私たちはイエス様を何よりも優先しなくてはなりません。
洗礼を受けるとき、私たちは皆の前でその決断を明確に宣言します。
イエス様は弟子作りについて、もう一つの重要なことを教えられました。それは、新しい弟子たちにイエス様の戒めを教えることです。そして、新しい弟子たちがその戒めを守るように教えることも含まれていました。
多くのクリスチャンたちはこれを聞いて、違和感を覚えるかもしれません。
「だって、それは律法主義でしょう?私たちは恵みによって救われたのではないですか?」
もちろん、私たちは恵みによって救われました。そして、キリスト教を単なる規則の体系として教えるべきではありません。
それでも、私たちが弟子たちに教えなくてはならないのは、神様が彼らを深く愛しておられるということです。そして神様は、私たちの最善を望まれます。
だからこそ、私たちが救いのために神様を信じるならば、神様の道が一番良いと信じ、従うのは当然のことです。私たちはその道を選んで進むべきです。
さらに、もし私たちが神様を本当に愛しているのであれば、神様を喜ばせることを選び取るべきです。
簡単に言えば、私たちは人々が神様に近づく方法を教えるべきです。そして、彼らが日々神様をさらに愛し、信頼するよう導くべきです。
残念ながら、多くの教会ではそのことが十分に教えられていません。そのため、教会の中には「赤ちゃんクリスチャン」と呼ばれる人々が多くいます。彼らは決して霊的に成長しません。
口では「神様を愛している」と言うかもしれませんが、神様に信頼することを学んでいないのです。その結果、彼らの人生は混乱してしまうことがあります。
ですから、私たちはただ福音を述べ伝えるだけではなく、弟子を作りましょう。イエス様を愛し、信頼し、従うクリスチャンを育てましょう。
そうすれば、彼らはイエス様の恵みと知識において成長するでしょう。
