この話は多くの意味で非常に面白い場面です。
特に面白いのは、天使がペテロを牢から救い出し、ペテロがマリアの家に行ってノックをしたとき、召使いのロデがあまりにも興奮しすぎて、ペテロを外に立たせたまま、他のクリスチャンたちに良い知らせを伝えた場面です。
けれども、この話を読んで、私はこう思いました。
「どうして神様はペテロを助けたのに、ヤコブを救ってくださらなかったのだろうか。」
その答えを私たちは知りません。
クリスチャンたちはヤコブのためにも祈っていたはずです。そして、ペテロのために祈ったとき、彼らの信仰がより強かったから神様が答えてくださったわけではありません。
なぜなら、ロデがペテロが外にいると伝えたとき、彼らはロデの言葉を信じませんでした。もし彼らに強い信仰があったなら、すぐに扉を開けていたでしょう。それでも彼らはそうせず、ロデが正気かどうかを疑い続けました。
私たちはクリスチャンたちの不信仰を批判できないと思います。なぜなら、彼らはヤコブのために祈ったのに、ヤコブは殺されてしまったからです。
彼らがヤコブのために祈ったとき、おそらく彼らの信仰は非常に強かったはずです。なぜなら、それ以前に神様は使徒たちを敵から救い出してくださったからです。(使徒の働き5章)
それでも、神様はヤコブを救い出さずに、ペテロを救い出してくださいました。
この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
1.私たちがどれほど強い信仰を持っていたとしても、神様は私たちの祈りに応えてくださらないことがあります。
時に、私たちの願いは神様の御心と一致していないため、神様は私たちの願いを退け、ご自身の計画を成し遂げられます。
その時、私たちはどう反応するでしょうか。
失望しても、なお神様に信頼し続けるでしょうか。
神様の方法が最善であることを信じ続けるでしょうか。
また、失望の中でも祈り続けるでしょうか。
この話のクリスチャンたちはそうしました。彼らは失望しても、信仰をあきらめませんでした。神様に対して苦々しい思いを抱くこともありませんでした。
むしろ、次の試練が訪れたとき、彼らはすぐに祈り始めました。そして、彼らの信仰が弱かったにもかかわらず、神様の恵みによってペテロは救われました。
これが私の次のポイントです。
2.私たちの信仰や不信仰は神様を制限しません。
もちろん、神様は私たちの信仰を望まれます。けれども、私たちの信仰が弱いときでも、神様はその不信仰によって制限されることはありません。神様は恵みに満ちた方であり、私たちに値しないものさえも与えてくださいます。
だから、私たちは神様のもとへ行き続け、神様が良い方であることを信じ続け、また、神様が最善を知り、それを行われることを信じ続けなければなりません。
神様はいつも私たちの願いを叶えられるわけではありません。しかし、神様はそのような信仰をいつも祝福されます。なぜなら、その信仰こそが神様を喜ばせるからです。
へブル人への手紙の著者はこう書きました。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル11:6)
