この箇所では、私たちは使徒の時代における最も重要な議論の一つを目にします。
パウロとバルナバは異邦人たちに福音を述べ伝えました。けれども、あるクリスチャンたちはパウロとバルナバの教えに反対しました。
つまり、パウロとバルナバはこう教えました。
ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。
また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについてこの方によって、信じる者はみな義と認められるのです。(使徒の働き13:38-39)
ところが、あるユダヤ人の信者たち、特にパリサイ派に所属している信者たちは、それを受け入れませんでした。
もちろん、彼らはイエス様への信仰によって人々が赦されることを信じていました。しかし、それに加えてもう一つの要求をしました。
つまり、異邦人たちは割礼を受けなければならず、さらにモーセの律法を守らなければならない、ということです。
だから、
パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じた。。。(使徒の働き15:2)
だから、彼らは皆、エルサレムに行き、使徒たちと長老たちとその問題について話し合いました。
まず、パウロとバルナバは、異邦人の間での神様の働きについて語りました。けれども、そのあと、パリサイ派の人々が立ち上がり、こう言いました。
「それはいいけれど、彼らはまだ割礼を受け、モーセの律法を守らなければならない。」
こうして、激しい議論が始まりました。
私はペテロの思いを想像できます。
ペテロは幼い頃からユダヤ人として育ち、ずっとモーセの律法に従ってきました。彼にとって、異邦人に対する神様の恵みの言葉を受け入れることは、まだ少し難しかったかもしれません。
そのため、彼はパリサイ派の人々の意見に共感を覚えたかもしれません。
それでも、コルネリウスの家に行ったとき、ペテロ自身がそのメッセージを異邦人に伝えました。
そのため、この議論を聞きながら、ペテロは神様からの幻をもう一度思い出していたことでしょう。(使徒の働き10:11-16)
そして、彼は再びその幻の教訓について思い悩んだかもしれません。
けれども、最終的にペテロは、神様がユダヤ人と異邦人を区別しないことを悟り、皆にこう言いました。
。。。人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証をされました。
私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首にかけて、神を試みるのですか。(8-10)
それを聞いて、皆は静かになりました。バルナバやパウロの異邦人との経験よりも、ペテロの言葉が彼らの心を打ったようです。
そして、ヤコブは聖書によってペテロの言葉を確認したため、すべての異議がなくなりました。
では、この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
恵みだけによって、私たちは救われるのです。
私たちはキリストの御業に、自分の努力を足すことはありません。
私たちが頑張ったからといって、神様がその報いとして私たちに恵みを与えてくださるわけではありません。
私たちの努力を神様の恵みに足して救われるのではなく、私たちはキリストの十字架の御業だけによって救われました。
けれども、ペテロのように、私たちの多くにとってこの真理を受け入れることは容易ではありません。そのため、「私はやっぱりだめだ」と思い、神様が本当に私たちを受け入れてくださるのか疑問に思うことがあります。
あるいは、周りの人々を裁いて、「あの人はだめだ」と考えてしまうこともあるかもしれません。
しかし、事実として、救いに値する人は誰もいません。だからこそ、私たちには恵みが必要なのです。
私たちは救いに値しませんが、イエス様が十字架で血を流されたことによって、私たちは義と認められました。神様はすでに私たちを受け入れています。だから、神様が私たちを受け入れてくださるかどうか、悩む必要はないのです。
それを本当に信じていますか?
パウロの言葉を心に留めておきましょう。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人への手紙2:8-9)
