この話の興味深い点は、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解を解こうとしたものの、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちとの間に新たな誤解を生んでしまったことです。
クリスチャンのユダヤ人とノン・クリスチャンのユダヤ人の両方が、パウロの教えを誤解しました。彼らは、パウロがユダヤ人のクリスチャンたちに対して、モーセの律法を完全に捨てるように教えていると思ったのです。
そのため、ヤコブと他の長老たちは、パウロにモーセの律法に従って、四人のユダヤ人クリスチャンたちとともに清めの儀式に参加するよう説得しました。
さらに、神様への誓願を守るために、その四人の費用をパウロが負担しました。(彼らはナジルの誓願を立てていたかもしれません。)
パウロはその考えに同意しました。しかし、ある聖書学者たちは、彼が誤った判断をしたと考えています。つまり、パウロは その儀式に参加すべきではなかったということです。
私の考えでは、パウロの選択は正しかったと思います。彼はユダヤ人を救うために、ユダヤ人にはユダヤ人のようになったのです。(第一コリント9:19-23)
それでも、ユダヤ人のクリスチャンたちとの誤解は解けたものの、ノン・クリスチャンのユダヤ人たちは依然としてパウロがモーセの律法に反対していると思っていました。
さらに、彼らは パウロが異邦人を神殿に連れ込んだと誤解しました。(ユダヤ人の律法では、それは禁止されており、神殿を汚す行為とされていました。)
では、私のポイントは何でしょうか。イエス様に従い、その言葉に忠実であっても周りの人々に誤解される可能性があるということです。
教会の人々だけでなく、この世の人々もあなたを誤解するかもしれません。誤解を解こうと努力しても、あなたのことを理解できない人もいるでしょう。
では、私たちはどうすればいいのでしょうか。イエス様に従い続けるしかありません。神様が私たちに語られたことに従わなくてはなりません。それが唯一の道です。人々の反応を神様に委ねるべきです。
もちろん、私たちは自分の行動を振り返る必要があります。彼らの批判が完全に誤っていることもあります。ところが、時には彼らの指摘が部分的に正しいこともあるかもしれません。
だからこそ、自分の行動と動機を慎重に見極めてください。そして、神様の御心がわかる限り、神様に従いましょう。パウロのような態度を取ることが大切です。
しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。
それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。
ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。
主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。(第一コリント4:3-5)
