この箇所では、パウロは偏見にとらわれていた二つのグループに直面しました。
ユダヤ人たちは、自分たちを神の民と見なしていたため、神様が異邦人の罪人を救いたいと望まれていることに気づけませんでした。
彼らは、異邦人が救われるためにはユダヤ人のようにならなければならないと考えていました。たとえ神様が異邦人を受け入れられたとしても、異邦人はユダヤ人より劣っていると見なしていたのです。
そのため、パウロが「神様は私を異邦人のもとへ遣わされた」と語ったとき、ユダヤ人たちはその考えをまったく受け入れませんでした。
一方、ローマ人たちはユダヤ人を見下していました。彼らは、ユダヤ人がローマ市民になることなどあり得ないと考えていました。
そのため、本来は裁判の前にローマ市民をむちで打つことが違法であったにもかかわらず、パウロに鞭打ちの刑を科そうとしました。
パウロが千人隊長に「私はローマ市民です」と伝えたとき、千人隊長は最初は信じませんでした。
けれども、自分の誤りに気づくと、深い恐れを感じました。なぜなら、ローマ市民をむち打つことは違法であり、それを行えば千人隊長自身が罰せられるからです。
では、私のポイントは何でしょうか。偏見にとらわれてしまうと、私たちはさまざまな問題に直面します。
もちろん、周りの人々を怒らせることもあるでしょう。しかし、それだけではなく、神様はそのような態度をもつ私たちを裁かれます。
神様はすべての人々を愛しておられます。そのため、イエス様は特定の民族のためではなく、すべての民族のために命を捧げられました。
そして、私たちがクリスチャンになると、神様は私たちを等しくご自身の子供として愛してくださいます。
パウロはこう言いました。
ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。
あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ3:28)
だからこそ、私たちは偏見を捨て、人々をありのままに受け入れましょう。彼らは神様のかたちに創造され、神様に愛され、救い主を必要としているのです。
