この箇所で、パウロはユダヤ人たちに語っています。そして、彼のポイントはこうです。
律法によって神様の前で義と認められたいのなら、ただ律法を知っているだけでは不十分です。あなたはその律法に完全に従わなければなりません。
だから、パウロはこう語ります。
あなたが自らユダヤ人と称し、律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえているなら、また、律法のうちに具体的に示された知識と真理を持っているので、目の見えない人の案内人、闇の中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だ、と自負しているなら、どうして、他人を教えながら、自分自身を教えないのですか。
盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿の物をかすめ取るのですか。
律法を誇りとするあなたは、律法に違反することで、神を侮っているのです。(ローマ人への手紙2:17-23)
つまり、あなたたちは律法を知っていて、誇り高く思っています。神様の律法を与えられ、神様の民と呼ばれることを誇っています。
あなたたちは、すべてを理解していると思い、もし誰かが神様とその道を知りたいなら、自分たちのもとに来るべきだと考えています。
しかし、あなたたちは自分が教える律法に本当に従っているでしょうか。もしかすると、神様の言葉を伝えた後で、その言葉に反する行動をしてはいないでしょうか。
そして、パウロは彼らにこう語りました。
「あなたがたのゆえに、神の御名は異邦人の間で汚されている」と書いてあるとおりです。(24)
正直に言えば、聖書を教える者として、この箇所は非常に厳しく感じます。私は、自分の行動のせいで神様の御名が友人や同僚の間で汚されることを望みません。偽善者にはなりたくないのです。
それでも、私はしばしば失敗してしまいます。時には、偽善的な行動をとってしまうこともあります。正しいことを行うのが難しい時もありますし、自分が説いていることに従うのが難しい時もあります。
説教する時や、このブログを書く時、私は多くの場合、自分自身に向かって語っているのです。
結局、私はただ、神様の御座の前にひれ伏し、憐れみを請うことしかできません。
実は、それこそがパウロのポイントです。私たちは皆、神様の恵みを必要としています。もし、律法によって自分が義と認められたいと主張するなら、その律法に完全に従わなければなりません。けれども、それができる人は誰もいません。
あなたはどうでしょうか。あなたはどれほど神様の恵みを必要としているか、理解していますか。
もし、「私はまあまあ良い人だ。ほかの人よりも、私はましだと思う」と考えているなら、自分自身をもっと見つめる必要があるかもしれません。なぜなら、私たちは自分が思うほど良い人ではないからです。
その真理を理解しない限り、私たちはどれほど神様を必要としているのかを正しく知ることはできません。
鏡を眺めると、あなたは何を見るでしょうか。
