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ローマ人への手紙

本当の割礼

ローマ人への手紙2:25-29

パウロの時代、ユダヤ人たちは神様に関して大きな誤解を抱えていました。彼らは、神様が人の外見よりも心を重視されることを忘れていたのです。

特に、割礼を受ければ神様に義と認められると考えていましたが、心の中にある罪には目を向けていませんでした。

神様は、旧約聖書の預言者たちを通して、この問題について警告されました。預言者エレミヤを通して、神様はこう語られました。

見よ、その時代が来るーー主のことばーー。

そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを切り上げているすべてのものを罰する。

すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。(エレミヤ9:25-26)

つまり、ユダヤ人たちが肉体的な割礼を受けることよりも、神様は彼らの心を求めておられました。もし彼らの心が神様に属していないなら、その割礼は神様にとって無意味なのです。

だから、パウロはこう語りました。

もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。

ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。

からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。

外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の体の割礼が無割礼ではないからです。

かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。(ローマ人への手紙2:25-29)

パウロは仮定的な状況について語っているようです。

もし誰かが律法を完全に守ることができたなら、その人は割礼を受けていなくても、神様に受け入れられるでしょう。その一方、誰かが律法に違反するなら、たとえ割礼を受けていても、神様はその人を律法の違反者として裁かれます。

さらに、律法に従う者は、割礼を受けている人を裁くことができるでしょう。

とはいえ、当然のことながら、割礼を受けている人も受けていない人も、律法を完全に守ることができる人は誰もいません。

だからこそ、パウロはユダヤ人たちに語ります。「割礼を受けても、あなたが本当のユダヤ人と呼ばれるとは限りません。割礼を受けても、あなたが神の民とされるとは限りません。割礼とは、単なる肉体的な儀式ではなく、心に関わることです。

御霊による心の割礼を受ける者こそが、神様の民であり、神様に受け入れられるのです。」

では、心の割礼とはどういう意味なのでしょうか。パウロはこう語りました。

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉の体を脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。(ローマ人への手紙2:11)

肉の体とは、「罪深い性質」を意味します。

言い換えれば、私たちは罪の鎖に縛られていました。しかし、キリストを信じて歩み始めると、イエス様はその罪の鎖を断ち切ってくださいました。それ以前の私たちは、罪深い性質に引き寄せられ、その欲望に従っていました。

けれども、聖霊がその性質を割礼されたことによって、私たちは神様に属する者となりました。さらに、罪の鎖が断ち切られたことで、神様に従う自由が与えられ、正しい人生を歩む力を授けてくださいました。

ただし、この心の割礼は、私たちの努力によるものではありません。むしろ、私たちは信仰をもってイエス様に心を捧げ、こう祈ります。

イエス様、あなたを必要とします。私は自分自身を救うことができません。どうか私を救ってください。私はあなたを信頼し、あなたの十字架の働きを信じます。だからこそ、私の罪を赦してください。私があなたのものとなるように。

このように祈るなら、あなたは神様の子供とされ、その瞬間、神様に義と認められるのです。

あなたはどうでしょうか。自分の心を神様に捧げていますか。心の割礼を受けた者となっていますか。

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