感じるときも、感じないときも、私たちの最も大切な必要は、神様に受け入れられることです。
私たちが神様に受け入れられることを理解すると、人生は完全に変わります。私たちは満足、平和、喜びを見つけます。さらに、本当のいのちを見つけます。
では、どのようにすれば私たちは神様に受け入れられるのでしょうか。パウロがはっきりと教えているのは、律法に従うことによって神様に受け入れられる人は誰もいないということです。
全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができ(ない)。(ローマ人への手紙3:23)
「罪」という言葉の原語は興味深いものです。それはアーチェリーの専門用語であり、「的を逸れる」という意味を持っています。
しかし、その意味は単に的の中心を逸れるだけではなく、むしろ的にまったく当たらないことを指します。
要するに、私たちは完全な人ではありません。神様と比べれば、私たちは決して聖い存在ではありません。
少し考えてみてください。
仮に一日に三回、悪いことを考えたり、言ったり、行ったりするとします。他の人々と比べれば、それほど悪いとは感じないかもしれません。
けれども、その三つの罪を365倍してみてください。一年間で約1000の罪になります。そして、その1000の罪をあなたの年齢に掛けると、どうなるでしょうか。それは何万という罪になります。
裁きの日に、あなたの罪について話すのに、何時間かかるでしょうか。もし、毎日三回以上罪を犯していれば、さらに多くの時間が必要になるでしょう。
したがって、私たち全員がすでに裁かれているのです。神様の前で、「私は、あなたに受け入れられるのにふさわしい者です。私は完全にあなたの律法に従いました。」と言える人は誰もいません。
けれども、良い知らせがあります。パウロはこう言いました。
しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証さて、神の義が示されました。(21)
どのようにすれば、私たちはその義を得ることができるのでしょうか。パウロは続けてこう言います。
すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。
そこに差別はありません。全ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。
神は、この方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。(22-25)
パウロは何を言いたいのでしょうか。この箇所には、さまざまなキリスト教の専門用語が出てきます。パウロは「贖い」について語ります。「贖い」とは何を意味するのでしょうか。
「贖い」とは、奴隷の自由を買い取ることです。私たちは皆、罪の奴隷であり、またサタンの国の奴隷でした。しかし、イエス様は私たちの自由を買い取ってくださいました。それが「贖い」の意味です。
では、イエス様はどのようにして私たちの自由を買われたのでしょうか。十字架でイエス様が流された血によって、私たちは自由とされたのです。
パウロは「宥めのささげ物」という言葉を使います。
この言葉の意味は、十字架でイエス様が私たちの罪に対する神様の怒りを受け入れ、その怒りが静められたということです。イエス様の血によって私たちの罪は覆われ、赦されました。
その結果、私たちは神様に近づくことができるのです。
したがって、私たちの良い行いによって神様が私たちを受け入れるのではなく、神様はイエス様の十字架の御業によって私たちを受け入れてくださいます。
言い換えれば、イエス様の死によって、私たちは神様に義と認められるのです。なぜなら、イエス様が私たちの罪の代価を支払われたので、神様は私たちを罪人として見なされないからです。まるで、私たちが罪を犯したことがないかのように見なされます。
今、私たちは恵みによって神様に受け入れられています。
「恵み」とは、私たちが値しないものを受けることを意味します。
本来なら、私たちは神様に背を向けたため、神様の怒りに値していました。けれども、今、神様は私たちを息子たちや娘たちとして受け入れてくださいます。
私たちに求められているのは、ただイエス様とその十字架の働きを信じて受け入れることなのです。
あなたはそれを受け入れましたか。
