この個所では、パウロはとても大切な疑問について話します。
救いや永遠の命は神様からの賜物でしょうか。もしかしたら、それらは、当然支払われるべきものでしょうか。
パウロははっきりと答えます。
働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。
しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。(ローマ人への手紙4:4-5)
従業員が働くと、給料日に上司は「あなたの給料を振り込みました。私はとても気前がいいですね。」とは決して言わないでしょう。
もし上司がそんなことを言えば、従業員は心の中でこう思うはずです。
「どういうことなんだ?気前がいいだって?私たちには契約があるはずだ。私はきちんと働いたのだから、会社は当然給料を払うべきだろう。」
しかし、私たちは神様に対してこのようなことを言うことはできません。
私たちが赦され、永遠の命を得る理由は、私たちが完全に律法を守ったからではありません。律法を守ることによって神様の子供になったわけでもありません。
むしろ、パウロはこう言います。
実際、律法は御怒りを招くものです。(15)
要するに、どんなに頑張っても、私たちは失敗してしまいます。
私はこう思うかもしれません。「前回は失敗したけれど、これからは努力して律法を完全に守ります。」
しかし、結局私たちは律法に違反し、神様の怒りを招いてしまいます。
旧約聖書の時代、ユダヤ人たちはその真理を深く学びました。そこで、神様は彼らにこう言われました。
「この律法に基づいた契約はうまくいっていない。
もちろん、律法は良いものだが、あなたがたは罪人であり、その律法を完全に守ることはできない。
だから私は新しい契約を与える。その契約はあなたがたの行為によるものではなく、私の行為によるものだ。」
エレミヤ書31:31ー34には、その新しい契約が記されています。
見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。
わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。
彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──主のことば──。
わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
要するに、「あなたがたはもはや自分自身を変える必要はありません。私があなたがたの心を変えるので、あなたがたは善を行うことができるようになります。
また、私とあなたがたの間に、もはや仲介者としての祭司は必要ありません。あなたがたは私と直接関係を持ち、私はあなたがたの罪をすべて赦します。」ということです。
この新しい契約は何に基づいているのでしょうか。最後の晩餐の時、イエス様は弟子たちにこう言われました。
また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。
「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの(新しい)契約の血です。」(マタイ26:26-28;ルカ22:19-20)
だから、私たちの救いと神様との関係は、私たちの行為に基づいているのではありません。むしろ、私たちの行為によって、神様の怒りを受けるに値します。しかし、救いは、イエス様の十字架の働きに基づいた賜物です。
律法が与えられる前に、神様はアブラハムにその賜物を与えてくださいました。そして、神様は同じ賜物を私たちにも与えてくださいます。
アブラハムは信仰によって受け入れられ、その賜物を受けました。同じように、私たちも信仰によって受け入れられ、その賜物を受けるのです。
だから、パウロはこう言われました。
そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。
こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。(ローマ人への手紙4:16)
