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ローマ人への手紙

救い:賜物?当然支払われるべきもの?(2)

ローマ人への手紙4:4-5

多くの人々にとって、救いが本当に賜物というコンセプトを受け入れるのは難しいので、もうちょっとそのことについて話したいと思います。

イエス様の時代でも、多くの人々はそのコンセプトが把握することができませんでした。

福音書では、私たちはある若い金持ちについて読みます。彼はイエス様にこう訊きました。

先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。(マタイ19:16)

その人の質問を見ると、私たちはその人の仮定を見ます。それは、救いが神様の義務です。つまり、私たちがこれとこれとこれをするなら、神様は私たちに永遠の命を与えなくてはいけないことです。

最初は、イエス様はその人の仮定に反ばくせずに、「神様の戒めに従いなさい。」と答えました。

その人は答えました。「私はそれらすべてを守ってきました。」

だからイエス様は言いました。「本当ですか。では、あなたの服従を試してみましょう。あなたの財産を売り払って、貧しい者たちに与えなさい。そして私に従って来なさい。」

もし、その人が本当に心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神を愛していて、また、隣人を彼自身のように愛していたら、(その二つの戒めは律法の土台でした)、彼はすぐにイエス様の戒めに従ったでしょう。

でも、彼は自分のお金に執着しすぎました。彼は神様や隣人よりも、自分のお金に執着しました。

だから、神様の律法はその人を正当化せずに、裁いてしまいました。だから、神様の義務は、ただその人を裁くことです。

嘆かわしいことだけど、その人はイエス様が教えようとすることの半分だけが分かるようになりました。つまり、彼が救いを自分の努力で得ることができなかったことです。

彼は、「私はそれができません。私は神様の戒めに完全に従うことができると思ったけど、それは無理です。どうしたらいいでしょうか。」と言えば、よかったのに。

そう言っていたら、イエス様は微笑んで、こう答えたでしょう。

それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。(マタイ19:26)

でも、イエス様の助けを求めずに、その人は悲しく立ち去ってしまいました。

別の時、イエス様はたとえ話を通して、同じことを教えました。

そのたとえ話では、あるパリサイ人は自分の義を誇りました。彼は神様に基本的にこう言いました。「私は本当にいい人です。だから、あなたは私に永遠の命を与えなくてはなりません。」

でも、ある取税人(その時代、取税人はとても堕落していた人で、イスラエル人に嫌われる職業でした)は神様にこう祈りました。

神様、罪人のわたしをあわれんでください。(ルカ18:13)

イエス様はこう尋ねられました。

「神様の前で義と認められたのは誰でしょうか。パリサイ人ではありません。彼が自分の義を誇っても、神様の義と比べると、その義は不完全なものです。だから彼は裁かれるのです。それは彼自身の努力の『報』なのでした。」

その一方、収税人は神様の前で義と認められました。なぜでしょうか?彼はいろいろな良い行いをしたからですか?

いいえ、違います。彼は恵みによって赦されたのです。彼が神様の憐れみを願い求めたため、神様は賜物として彼に永遠の命を与えてくださいました。

最後に、十字架の出来事について考えてみてください。イエス様の隣で十字架につけられた罪人も、死刑に処されました。

彼は救いに値しませんでした。むしろ、自分の行いのゆえに、彼は死に値しました。けれども、彼がイエス様を信じると、イエス様は彼にこう言われました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)

その罪人は救いのために働いたのではなく、むしろ賜物として救いを受けました。

福音書の中で、私たちはこのテーマを何度も目にします。

私たちの努力によって得るものは何でしょうか。それは裁きです。しかし、救いは賜物です。その真理は決して変わることはありません。

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