私は聖書を何度も読んだことがあるので、新しい発見があると、本当にうれしく感じます。
とくに16-17節は、私の心に深く響きました。
そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。
こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。
アブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。
彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。(ローマ人への手紙4:16-17)
「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神。」
この言葉を深く考えてみると、救いの本質を表していることが分かります。
神様が私たちを救う前、私たちは霊的に死んでいました。罪のために裁かれたのです。しかし、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったことによって、私たちは永遠の命を与えられました。
「無いものを有るものとして召される神。」
この言葉は創造を示しているようです。つまり、神様の思いによって、この世界のすべてが存在するようになったということです。
けれども、アブラハムの物語を読むと、私たちはこの「無いものを有るものとして召される神」という概念をより深く理解できます。神様はアブラハムにこう約束されました。
「あなたは多くの国民の父となる。」 「地のすべての国民はあなたによって祝福される。」
驚くべきことに、神様がその約束をされたとき、アブラハムはすでに75歳であり、妻サラは65歳でした。
それでも、神様はその約束を守られました。神様のご計画の中には、アブラハムのための素晴らしい未来があり、その計画は実現しました。
そして、アブラハムは決して神様がご自身の約束を守るかどうかを疑いませんでした。
時には、神様の計画の詳細を理解できず、愚かな行動を取ることもありました。(だから、ハガルの問題が起こりました。)
けれども、アブラハムは決して「神様はうそをついた」と考えることはありませんでした。
だから、パウロはこう言いました。
彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。
不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。
だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。(ローマ人への手紙4:19-22)
そして、パウロはこう言いました。
しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。
すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。(23ー24)
この箇所で、パウロは「義と認められる」ということについて語ります。
私が以前述べたように、この概念を理解するのは少し難しいです。どうして神様は罪人を義人と見なすことができるのでしょうか。彼らが何度も罪を犯すのに、どうして義と認められるのでしょうか。
その答えは17節にあります。神様は「無いものを有るものとして召します。」
新改訳第三版では、このように翻訳されています。「(神様は)無いものを有るもののようにお呼びになります。
これは「義と認められる」という概念を表しています。神様は義のない者を義のある者のようにお呼びになります。
どうしてでしょうか?それは、神様のご計画の中で、私たちはすでに義人とされているからです。神様は現在の私たちだけでなく、将来の私たちの姿を見ておられます。
神様が宇宙を造られたとき、神様の思いにはすでにどんな宇宙になるかが見えており、一言で、すべてが造られました。
神様がアブラハムに約束されたとき、その思いにはイサク、イスラエル、そしてイエス様の姿があり、一言ですべてが成就しました。
神様が私たちを見るとき、その思いには私たちがどのような人になるかが見えています。そして、神様の力によって、私たちはイエス様のかたちに変えられていきます。
毎日、私たちは少しずつ変わりつつあり、天国に行くと、そのプロセスは完成します。だからこそ、神様は私たちを見ると、義人と呼ぶことができるのです。
けれども、アブラハムのように、私たちはしばしば目の前の現実を見ます。つまり、私たちは弱く、罪を犯し続けてしまいます。
だから、アブラハムのように確固たる信仰を持ち、神様の約束を信じましょう。
神様がご自身の約束を実行する力を持っておられることを確信しましょう。神様は私たちを変え、私たちを本当に義人とされます。それは神様の思いの中だけでなく、現実となるのです。(第二コリント 3:18、第一ヨハネ 3:2)
このことを心に留め、信仰を強め、神に栄光を帰しましょう。それは私たちの行いによるものではなく、イエス様の行われたことによるものです。
主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。(25)
