私は高校生のときにこの箇所を暗記しました。それは何年も前のことですが、今でもよく覚えていて、英語で暗唱することができます。(日本語では難しいですが。)
実にキリストは私たちがまだ弱かったころ、定められたときに、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ人への手紙5:6-8)
私が高校生のときも、今も、その言葉は私の心を打ち続けています。
神様は、私たちができることをしてくださったのではありません。
私たちは自分自身を救うことができませんでした。罪の中で溺れていたのです。私たちは救命浮輪を持たず、船もまったくありませんでした。自分を救う力もなく、それでも神様を求めず、誰かの助けさえ求めませんでした。
それにもかかわらず、私たちが神様に背を向けたのに、神様はイエス様をこの世に送られました。十字架でイエス様は私たちの罪のために死なれ、私たちの罰を受けてくださいました。だからこそ、私たちは神様と和解することができるのです。
パリサイ人のような「正しい人」のために命を捨てる人は、ほとんどいません。 なぜなら、彼らはルールを守っていたかもしれませんが、いつも人を責めていたからです。
しかし、優しい人のために命を捨てる人は、いるかもしれません。
けれども、私たちはルールを守らず、それほど優しい者でもありませんでした。 私たちは神様に反抗し、背を向け、自分の道を歩んでいました。
その結果、神様だけでなく、周りの人々や自分自身をも傷つけました。それでも、神様は私たちに背を向けて捨てることはされませんでした。
むしろ、神様は人間となり、私たちの代わりに死んでくださり、三日目によみがえられました。
これこそが恵みです。私たちは、神様から良いものを受けるに値しませんでした。それどころか、私たちは刑に値する者でした。それでも、神様は私たちを愛し、救われました。
神様を信じる私たちは、その恵みを受けました。私たちは有罪であり、その愛に値しない者でした。罪にまみれ、惨めな者でした。それでも、神様は私たちを救われました。それは、本当に驚くべき恵みです。
Amazing grace,
驚くべき恵み。
How sweet the sound,
その響きはなんと美しいことでしょう。
That saved a wretch like me,
この恵みが、惨めな私を救いました。。
I once was lost,
かつて私は迷っていました。
But now I’m found.
しかし今、神様が私を見つけてくださいました。
Was blind but now I see.
盲目であった私が、今は見ることができます。
