この箇所は二つの真理を示しています。
第一の真理は律法の限界、第二の真理は恵みの力です。
パウロはこう言いました。
律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。(ローマ人への手紙5:20)
それは少し奇妙に聞こえるかもしれません。人の罪を増やすことが神の律法の目的なのでしょうか。
けれども、13節を読むと、パウロの意図がより明確になります。
実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ、罪は罪として認めらないのです。(13)
律法が存在する前に、人々は悪いことをしました。しかし、人々が神様の基準を知らないかぎり、その基準によって裁かれることはありません。それでも、神様に背を向けたため、そのことによって彼らは裁かれました。
さらに、自分の良心や律法に反したため、彼らの良心や律法が神様の基準に一致しているかぎり、彼らは裁かれました。(ローマ2:14-15)
けれども、彼らの良心や律法は不完全でした。それらは汚れた鏡のようでした。
だから、神様はご自身の律法を人々に与えてくださいました。その律法によって、人々は何が良いことであり、何が悪いことなのかをはっきりと知るようになりました。
ところが、人々がその律法を知るにつれて、罪は増えました。なぜなら、彼らは意図的に神様の律法に違反し始めたからです。
これこそが律法の限界です。律法は私たちを良い人に変えることはできません。むしろ、私たちは罪を知ることで、責任が増します。
それに、私たちは罪人の心を持ち、神様に逆らうため、その律法を見ると、罪をさらに犯したくなるのです。
その結果は何でしょうか。死です。
けれども、良い知らせがあります。
しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。(20b-21)
ある人々はこう思うかもしれません。
「どうして神様は律法を与えられたのでしょうか。私たちの責任が増えれば増えるほど、私たちの罰は厳しくなります。
それを知っていても、神様の律法は私たちに与えられました。それは厳しすぎるのではないでしょうか。神様はただ罰したいのでしょうか。」
パウロはそのように考えませんでした。なぜなら、どんなに罪が増えても、イエス様を救い主として受け入れる人に対して、恵みは満ち溢れるからです。神様の恵みが覆うことのできない罪は、何ひとつないのです。
さらに、人がどんなに悪くても、神様の恵みはその人を変えることができます。パウロは、「恵みもまた義によって支配する」と言いました。
もちろん、恵みによって神様が私たちを見てくだされば、「この人は無罪だ」と言われます。
しかし、それだけではなく、神様の恵みによって私たちは新しい心を受けます。その新しい心を受けることで、私たちは自然に良いことを行い始めます。私たちの考え方、行い、言葉は神様を喜ばせます。
言い換えると、私たちは神様の目には義人として認められるだけでなく、実際に義人とされるのです。究極的に、神様が私たちの内に働かれることによる結果は、永遠のいのちです。
だからこそ、恵みは驚くべきものです。どんなに悪い状態でも、神様の恵みはあなたを変えることができます。あなたがすべきことは、ただその恵みを受けることです。
あなたはどうでしょうか。神様の恵みを本当に知っていますか。
