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ローマ人への手紙

罪の悪さ

ローマ人への手紙7:7-13

ローマ人への手紙7:5で、パウロは「私たちが罪深い心と結びついている間、律法によって罪の欲情がかき立てられた」と述べています。

ここで当然生じる疑問は、「では、律法は悪いものなのか。律法は罪なのか」ということです。

「なぜなら、律法によって私たちの罪の欲情がかき立てられるのだから、律法のせいで私は罪を犯してしまうのではないか?」

しかし、パウロはこの問いにこう答えます。

決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。

実際、律法が「隣人のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。(ローマ人への手紙7:7)

要するに、律法は良いものです。律法は罪ではありません。むしろ、律法を通して、私たちは罪を認識することができます。その知識によって、私たちは罪を避けることができるのです。

では、問題は何でしょうか。

しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。(8a)

この箇所で、パウロは罪を擬人化しています。このたとえにおいて、罪は律法を見ると、こう言います。「ああ、神様はこんな行為を嫌っておられるのか?」

そして、罪は私たちの罪深い心にささやきます。「神様の律法に違反しよう。」

私たちの罪深い心には、すでに神様に反抗する傾向があるため、喜んで律法に違反します。

次に、パウロはこう言います。

律法がなければ、罪は死んだものです。(8b)

それは非常に重要な真理です。私たちは存在しない律法に違反することはできません。たとえ悪いことをしてしまうとしても、律法がなければ、神様はその違反に対して私たちを裁くことはできません。

律法がなかった時代、神様はただ一つの理由で人を裁かれました。それは、彼らが神様に背を向け、自分の道を歩もうとしたことです。実は、その態度こそが、すべての罪の根源なのです。

けれども、そのあと、神様はモーセを通して、私たちに律法を示してくださいました。

そして、その律法を通して、神様は人々に命への道を示されました。つまり、彼らは神様がどのようなお方なのかを知り、また、神様が人間をどのように造られたのかを理解することができました。

では、神様がイスラエルの民に律法を与えられたとき、彼らはどのように反応したでしょうか。「これは命への道なのか。良かった。それに従おう」と言ったでしょうか。

いいえ、そうではありません。パウロはこう述べています。

私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。

それで、いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました。(9-10)

なぜでしょうか。

罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。(11)

要するに、戒めが与えられると、戒めに違反する可能性が生まれました。そして、罪は生き、私たちを欺いたため、私たちはその戒めに違反しました。だから、私たちは裁かれました。

以前述べたように、この話ではパウロは罪を擬人化しています。とはいえ、罪は実際には人ではありません。

また、パウロが「罪」と言うとき、サタンについて触れているわけではないと思います。(もっとも、もちろんサタンは私たちを誘惑しようとします。)

パウロの要点は、神様が律法を示されたとき、律法に違反する機会も生じたということです。そして、私たち全員が罪深い心を持っているため、その機会を見たとき、罪を犯してしまいました。

その結果は何でしょうか。それは死です。

パウロはこの話を次のようにまとめています。

ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。(12)

簡単に言えば、「律法が問題なのではありません。律法は良いものです。問題はあなたにあります。あなたは律法に違反したため、死に値するのです。」ということです。

そして、パウロはこう問いかけます。

それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。(13a)

つまり、「パウロ、あなたは律法が良いものだと言うけれど、その律法によって私は裁かれ、死ななければならないのなら、それは本当に良いことなのだろうか?」という疑問です。

パウロはこのように答えます。

決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。

罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。

罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。(13b)

パウロは何を伝えようとしているのでしょうか。彼はこう言っています。

「今になってようやく、あなたは罪がどれほど悪いかを理解するのです。罪は良いものを歪め、悪い結果をもたらします。律法はいのちへの道を示しますが、罪は律法を通して人々を滅ぼしました。」

考えてみれば、罪は常に良いものを歪めます。

例えば、セックスは本来とても良いものです。セックスを通して夫婦は互いに愛を表し合い、子供を授かることができます。

けれども、罪がセックスを歪めたため、私たちの社会には、レイプや姦淫、ポルノが存在するのです。

律法の重要な役割の一つは、私たちに罪の本質的な悪さを理解させることです。それを理解できなければ、人々は自分に救い主が必要であることを決して悟ることができません。

だからこそ、私たちは律法を必要とするのです。

あなたはどうでしょうか。罪の本当の恐ろしさを理解しているでしょうか。

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