ローマ書6章と7章を読んだとき、私は自分自身にさまざまな疑問を問いかけました。その中の一つが、「私たちの罪深い心は本当に死んでいるのだろうか?」という問いです。
この問いにどう答えるかによって、ローマ書7章の解釈が変わります。特に、14節から25節の理解に大きな影響を及ぼします。
この箇所でパウロは、律法に出会ったとき、自分が律法に従うことができないと気づいたことを告白しています。
では、彼はノンクリスチャンだった頃の経験について話しているのでしょうか。それとも、クリスチャンとしての葛藤を認め、罪との戦いについて述べているのでしょうか。
だから、この箇所を考察する前に、私たちと罪深い心の関係について整理しておきたいと思います。私たちはまだ罪深い心を持っているのでしょうか。
この点については、聖書学者たちの間でも議論が続いています。
私の意見が正しいかどうかはわかりませんが、ひとまずここで述べておきます。(もしかすると、10年後には意見が変わっているかもしれません。)
私が以前言ったように、「罪深い心」と言うと、私は神様に反抗する生まれつきの態度について話します。
私たちは生まれたときからその態度を持っていて、年を重ねるごとに、その態度は私たちの考えや行動に浸透していきます。そして、最終的にその態度が私たちを定義することになりました。
悪い伝染とゾンビの話を覚えていますか?ゾンビウイルスが人に感染すると、やがてそのウイルスがその人のアイデンティティを支配し、最終的にその人はゾンビになってしまいます。
同じように、私たちが無垢な赤ちゃんのときに罪深い心は私たちに伝染し、やがて本格的な罪人になっていきます。
けれども、私たちが救われたとき、何が起こったのでしょうか?その罪深い心は十字架につけられ、死にました。そして今、私たちはイエス様と「結婚」しています。それでも罪が残した影響を見ることができます。
考えてみてください。ある女性が夫に虐待されました。そのため、彼女は肉体的な傷や精神的な傷を持っています。そして、その夫が亡くなります。彼はもう積極的に彼女を傷つけることはできません。
それにしても、彼の過去の行為は今でも彼女に影響を与えています。彼女の肉体的な傷や精神的な傷がまだ残っているからです。
さまざまな意味で、その夫とその行為はその妻の人生を形作りました。だから、将来別の男性と関係を築こうとする時、彼女は元夫の悪い影響を感じるでしょう。
例えば、虐待する人と関係を持ってしまうかもしれません。
または、誠実な男性に出会ったとしても、彼女はその人を完全には信頼できないかもしれません。その結果、彼の愛に心から応じることができなくなるでしょう。
けれども、時間と癒し主の働きによって、彼女はその悪い影響から解放され、癒されるのです。
同じように、私たちの死んだ罪深い心も私たちに深い影響を残します。
その罪深い心が生きている間、神様に信頼せず、反抗していました。そして、それは私たちにそのような態度を持つように根付かせました。
そのため、私たちの思考や肉体には罪の傾向が刻まれました。その罪深い心が、かつての私たちの本質を定義していたのです。
しかし、私たちがクリスチャンになった時、その罪深い心は消え去りました。それでも、その影響はまだ私たちの中に残っています。私たちは人生を通じて、その残された影響と戦い続けていくのです。
だから、私たちクリスチャンは、自分の罪深い心が死んだと言うことができます。つまり、私たちはもはや意図的に神様に反抗せず、むしろ神様に従いたいと願うようになりました。
それでもなお、罪深い心の残された影響を感じることがあります。それらの影響は今も私たちの中に存在しています。
とはいえ、罪深い心はすでに死んだため、もはや私たちを支配したり、悪い影響を及ぼしたりすることはできません。そして、私たちの偉大な癒し主—イエス様が、私たちを完全に癒してくださいます。
これから数日間にわたって、このことについてさらに深く考えていきましょう。
