前回の記事で、私たちには罪に打ち勝つ希望があると述べました。
それにもかかわらず、多くのクリスチャンは絶望してしまうことがあります。彼らは問いかけます。
「私は本当にクリスチャンなのだろうか?何度も罪を犯してしまうが、本物のクリスチャンがそんなことをするはずがないだろう。私は正しいことをしたいと思っているのに、何度も失敗してしまう。」
けれども、ここでパウロの言葉を見てみましょう。
私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。。。
私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。(ローマ人への手紙7:15-16,19-20)
この箇所のテーマは何でしょうか。それは「戦い」です。
神様の恵みに触れていないノンクリスチャンは罪と戦うことはありません。多くの場合、彼らは自分の罪の問題に気づくことすらありません。
一方で、クリスチャンはその問題を認識し、戦うのです。
もし、「私はクリスチャンだ」と言い張る人が、神様が罪について何を語ったかを知っていながら、意図的に罪を犯し、なおかつ「私が罪を犯しているって?そんなことはないよ。」と言うなら、私はその人の「私はクリスチャンだ」という主張を疑うでしょう。
もしかすると、彼らは本当はクリスチャンではないのかもしれません。あるいは、彼らはクリスチャンだけれど、心を頑なにしてしまい、神様の声が聞こえなくなってしまったのかもしれません。
(もちろん、神様の言葉をあまり知らない若いクリスチャンもいます。その人たちの信仰を疑うわけではありません。とはいえ、私たちはその人たちにしっかりと教える責任があります。)
しかし、私は罪と戦っているクリスチャンの信仰を疑いません。むしろ、私は神様がその人の心の中で働いていることを確信しています。
そして、もし神様がその人の心の中で働いているなら、神様は必ずその働きを完成してくださいます。
パウロはこう言いました。
あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り。。。
あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信してます。【ピリピ1:4,6)
もし神様があなたの罪を指摘しているなら、神様があなたを見捨てて豚小屋に置き去りにすることはないと信じ、安心してください。神様はあなたに勝利を与えてくださいます。これが、私たちの希望です。
だから、パウロは「私は本当に惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(24節)」と叫びました。
けれども、すぐに「神に感謝します。それは、私たちの主イエス・キリストによるのです。」とも叫ぶことができました。(これは25節の別訳です。その脚注を参照してください。)
私たちは、自分の力で自分自身をより良い人にすることはできません。私たちには、自分自身を変える力がありません。しかし、神様にはその力があります。これも、私たちの希望です。
では、私たちはどのように変わることができるのでしょうか。それは、私たちの内に住んでおられる聖霊様を通してです。
この点については、別の記事で詳しく扱います。どうぞお楽しみに。
