ローマ書8:16-17節の言葉は、本当に心強いものです。
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。
すべてのクリスチャンはそれを読み、励まされることでしょう。私たちは神様の愛する子供です。そして、私たちは神様の相続人なのです。
ところが、パウロはさらに語り続けます。
私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。(ローマ人への手紙8:17b)
苦難?誰も苦難を望みません。では、パウロはどのような苦難について語っているのでしょうか。
35節で、パウロはいくつかの例を挙げています。「迫害」、「飢え」、「裸」、「危険」、「剣」です。
私たち全員が苦しみを経験することがあります。この世において、苦しみを完全に避けることはできません。
それは、ノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンも同じです。なぜなら、キリストに従うことによって、時にはそのゆえに人々から憎まれることがあるからです。
けれども、なぜ私たちは苦しまなくてはならないのでしょうか。なぜ神様は単にその苦しみを取り除かないのでしょうか。そもそも、なぜ神様は苦しみを許されるのでしょうか。
それは難しい疑問です。パウロは、その答えの一部を説明しています。
被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。(20-22)
どうして地震や津波、その他の天災が起こるのでしょうか。どうして先天的障害や病気、そして死があるのでしょうか。神様はそれらを取り除くことができるでしょう。
もちろん、神様にはそれが可能です。それなのに、神様はそれらを許されます。なぜでしょうか。
そんなものが存在しない世界を想像してみましょう。確かに、私たちの人生は楽になるでしょう。それでも、人々は罪を犯し続けるでしょう。
彼らは神様のことを考えずに罪を犯し、それを気にしない態度を持つでしょう。自分の罪の悪さに気づかないまま、生きるでしょう。結果として、この世の状態はさらに悪化するかもしれません。
しかし、この世の苦難を通して、人々は自分の死ぬべき運命に向き合わなければなりません。
さらに、彼らは罪の悪さを直視する機会を持つのです。そして、人々は目を覚まし、神様を求め、救いへと導かれます。
だからこそ、神様はこのような苦難を許されるのです。神様の望みは、人々が神様に向き、本当の喜びを知ることです。そして、神様の救いの計画が成就すると、イエス様はこの世に戻り、すべてを新しくされます。
とはいえ、パウロによれば、その日が来るまで、この世は産みの苦しみを経験し続けます。それは死に至る痛みではなく、新しい命へとつながる痛みです。
そして、この世の苦難を通して、多くの人々が神様へと向かい、神様の子供となり、神様の国が広がります。
それでも、この世の産みの苦しみは本当に大変なものです。
クリスチャンたちの苦しみもまた、決して軽いものではありません。
そして、パウロはこう語ります。
それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。(23)
私たちは苦しみのゆえに、うめきます。私たちは自分の罪と戦いながら、うめきます。そして、この世の罪や苦しみから解放される日を待ち望んでいます。
けれども、待ち望む間にも、私たちには希望があります。それは、私たちがキリストとともに苦難を経験しているとしても、やがてイエス様の栄光を受けるということです。
また、その栄光と比べると、今の苦しみは取るに足りないものです。(18)
さらに、私たちには、いつかすべてが新しくされるという希望があります。それは、今は目に見えない希望です。パウロによれば、「目に見える望みは望みではありません。」(24)
そして、パウロはさらにこう語りました。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人への手紙5:5)
では、待ち望んでいる間に、私たちはどうすべきでしょうか。
忍耐しながら希望を持ち続けましょう。必ずその希望は現実となるからです。
あなたはどうでしょうか。今、苦しみの中にいるでしょうか。希望を持ち、待ち望んでいるでしょうか。
