クリスチャンであっても、罪悪感に苦しみ、神様に責められているように感じることがあります。
私たちの誤った決断によって物事が崩れてしまい、「どうして私はいつも失敗してしまうのだろう」と嘆くことがあります。
あるいは、誘惑と戦いながら、「私は長い間クリスチャンなのに、どうして今もこの罪に引き寄せられてしまうのだろう」と悩みます。
また、聖書で御霊の実について読むと、自分自身を責めてしまうことがあります。
「愛?いや、私にはその実が十分に育っていない。寛容?いや、まるで足りない。柔和?いや、それも欠けている。」
そして、私たちは自分自身に問いかけます。
「どうして私はその実を持っていないのだろう。どうして私は変われないのだろう。私はやっぱりだめなのだろうか。」
しかし、前回の記事で私が言ったことを心に留めておきましょう。
神様はこの世を創造される前から、あなたのことを深く知っておられました。神様は、あなたがどのような人になるかをすべてご存じでした。
神様は、あなたがどのような罪と戦うことになるかを知っておられました。神様は、あなたの人生において、どの御霊の実が現れるまでに長い時間がかかるかを理解しておられました。
そして、神様はあなたが御子のように変えられるまでに、どれほどの年月が必要かも知っておられました。
それでも、神様はあなたを選ばれました。そして、神様はあなたを召されました。そのあと、神様はあなたを義と認められました。そして、ある日、神様はあなたに栄光を与えてくださいます。
その日、私たちはキリストに似た者となります。なぜなら、私たちはキリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)
だから、パウロはこう語ります。
では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ人への手紙8:31)
神様は私たちの味方です。神様はあなたを選ばれるほどに、愛しておられました。だから、誰があなたに反対できるでしょうか。
パウロはその概念をさらに深く説明します。
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(32)
要するに、神様が私たちにとって最も重要な必要、つまり私たちの罪の赦しを備えてくださったのなら、他の必要にも必ず備えてくださるのではないでしょうか。
だから、イエス様はこう語られました。
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。
あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:31-33)
そして、パウロは私たちを神様の法廷へと導き、こう問いかけます。
だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。(ローマ人への手紙8:33)
つまり、神様の法廷では、神様はあなたを訴えてはいません。むしろ、神様はあなたを義と認めておられるのです。
そして、パウロは問いかけます。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。(34)
キリストはあなたを責めていません。私たちが裁かれないように、イエス様は十字架で命を捧げられました。
さらに、イエス様は裁判官の右の座に着き、あなたのためにとりなしをしてくださいます。
その判決はすでに決まっています。裁判官も検事もあなたの味方なのです。
それなら、どうして私たちはいつも自分自身を責めてしまうのでしょうか。裁判官も検事もそうしないのです。だから、私たちが自分自身を責める必要はありません。
だから、罪悪感に苦しみ、裁かれているように感じるとき、また、神様の恵みに値しないと思うとき、この聖書の言葉を心に留めてください。
神様はあなたの味方です。あなたが生まれる前から、神様はあなたの味方でした。そして、永遠に至るまで、神様はあなたの味方なのです。
