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ローマ人への手紙

神様の選びの神秘(3)

ローマ人への手紙9:1-29

前回の記事で私たちが見たのは、神様が人々を裁くことを決められる一方で、その裁きを猶予されるということです。その間、神様は彼らにこう語られます。

「私はあなたを裁こうと思っている。それでも、私の判断が誤っていることを証明する機会をあなたに与えよう。もし私が間違っているなら、それを証明しなさい。あなたが滅びに値しないことを示しなさい。」

そして神様は忍耐をもって、彼らの応答を待っておられます。

エゼキエル書にも、神様の考え方が示されています。神様はエゼキエルにこう語られました。

わたしは生きている──神である主のことば──。

わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。

イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33:11)

また、

わたしが悪しき者に「あなたは必ず死ぬ」と言っても、もし彼が自分の罪から立ち返り、公正と義を行い、その悪しき者が質物を返し、かすめた物を償い、不正を行わず、いのちの掟に従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。

彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公正と義を行った彼は必ず生きる。(エゼキエル書33:14-16)

とはいえ、以前にも述べたように、問題は人々が悔い改めることなく、ますます悪くなってしまうことです。ファラオはその典型的な例の一つです。

神様はまずファラオに警告されました。その後、神様は彼を裁かれました。

それでも、ファラオは自分の心を柔らかくすることはありませんでした。彼は悔い改めませんでした。むしろ、彼は意図的に、自分の心を頑なにしたのです。

出エジプト記7:13、7:22、8:15、8:19、8:32、9:7において、そのパターンを見ることができます。

そして、その後、私たちは初めてこの言葉を目にします。

主はファラオの心を頑なにされた。(出エジプト記9:12)

ファラオが何度も自らの心を頑なにした後、神様は彼にこう語られました。

このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。(出エジプト記9:16;ローマ9:17)

ファラオはそれを聞き、さらにもう一つの奇跡を見た後、一時的に心を柔らかくしました。ところが、すぐに再び自らの心を頑なにしてしまいました。(出エジプト記9:34)

その後、神様ご自身がファラオの心を積極的に頑なにされました。神様は基本的にファラオにこう語られました。

「あなたは自らの心を頑なにしたいのか。それならば、私はそのプロセスを速めよう。」

神様は、ファラオの心を変えるために、さらに何かをすることができたでしょうか。神様は、ファラオが悔い改めるまで憐れみを示すことができたでしょうか。

確かに、そうだったかもしれません。それでも、神様にはそのような義務があったわけではありません。むしろ、神様には罪を罰する義務がありました。そして、神様はその義務を果たされたのです。

恵みの不思議さはこうです。

私たちはファラオ同然でした。私たちは自らの心を頑なにしましたが、それでも神様は私たちを罪の状態のままにはされませんでした。

さらに、神様は私たちに値する罰を与えられませんでした。むしろ、私たちがようやく神様を信じ、愛するまで、神様は私たちを憐れんでくださいました。

だからこそ、ファラオのような話を読むとき、私たちはファラオや他の裁かれた人々を見下すことなどできません。

むしろ、パウロはこう語ります。

しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。(ローマ人への手紙9:23)

つまり、私たちがこのような話を読むとき、自分たちが裁かれた人々と同然であるにもかかわらず、神様が私たちを選び、救ってくださったことに驚くはずです。

私たちはかつて神様の民ではありませんでした。それでも、神様は私たちをご自身の子供として迎え入れられました。

私たちは神様の愛に値しなかったのに、神様はその愛を私たちに惜しみなく注がれました。(9章24~27節)

それこそが、恵みの不思議さです。

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