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ローマ人への手紙

どうして、神様への道はイエス様しかないだろうか(2)

ローマ人への手紙10:1-5

前回の記事で、私は「なぜ神様への道はイエス様だけなのか」という疑問について話しました。今日の記事では、この疑問をさらに深く掘り下げたいと思います。

前回の記事でも述べたように、パウロは特にユダヤ人について語っています。とはいえ、彼の言葉はすべての宗教的な人々にも当てはまると思います。

パウロはこう言いました。

兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。

私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。(ローマ人への手紙10:1-2)

パウロは非常に重要なポイントを教えています。

多くのユダヤ人や宗教的な人々は神様に対して熱意を持っています。もちろん、それは良いことです。しかし、知識に基づかない熱意は必ずしも良いものではありません。

特に、彼らは神様が最も望んでいるのは信仰であるということを理解していません。

さらに、パウロはこう言います。

彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。(3)

これは宗教的な人々が抱えるもう一つの問題です。彼らは本当の義を知らないため、「義」を勝手に定義してしまいました。

つまり、何が良いことであり、何が罪であるのかを、自分たちの基準で決めてしまったのです。彼らは、神様が何を望んでおられるかを想像し、その想像に基づいて独自のルールを作り上げました。

そのため、彼らが本当の義、つまりイエスを信じる信仰による神の義を知ったとしても、その義を拒絶してしまいます。むしろ、彼らは自分で作り上げた道を歩み続けます。

しかし、もしあなたがどれほど熱意を持っていたとしても、神様の基準に反する基準を築いてしまっているなら、神様はそれを喜ばれません。

実際、たとえ神様が人間的な基準を許されたとしても、人々は自ら定めた基準を完全に満たすことができません。

だから、パウロはこう言いました。

モーセは、律法による義について、「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」と書いています。(5)

もちろん、パウロはユダヤ人とモーセの律法について語っていました。

しかし、少し考えてみてください。日本では、誰が日本のルールや法律を完全に守ることができるでしょうか。

完全にルールや法律を守る人は誰もいません。それでも、多くの人は、ルールを守ることによって神様を喜ばせようとします。

だからこそ、自分の宗教的なルールを築くとき、二つの意味で彼らは失敗してしまいます。

第一に、彼らの基準が神様の基準ではないことです。

第二に、彼らは自ら定めた基準を完全に満たすことができないということです。

では、なぜ彼らは、神様が自分たちを受け入れてくださると考えるのでしょうか。特に、神様が最も望んでおられるのは、彼らが神様に信頼することですが、彼らはそうしないのです。

それではいけません。

だからこそ、パウロはこう言います。

律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。(4)

簡単に言えば、私たちは自分の基準や宗教を手放す必要があります。なぜなら、それらによって神様を喜ばせることはできないからです。だからこそ、イエス様に心を向けましょう。

キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(第一コリント1:30)

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