ほとんどのクリスチャンは、今では反ユダヤ主義的な態度を持っていません。けれども、過去にはそのようなクリスチャンもいました。
私には、そのような態度が決して理解できませんでした。なぜなら、今日の聖書の箇所で、パウロはそのような考え方を完全に否定したからです。
おそらく、反ユダヤ主義的な態度の根本にはプライドがあるのでしょう。この箇所で、パウロは私たちのプライドの根拠さえも打ち砕きます。
実は、イスラエルに対して不満を述べたとき、預言者エリヤもそのようなプライドを持っていました。エリヤはこう言いました。
私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエル子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。
ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。(列王記第一19:10)
要するに、「神様、私を見てください。私はあなたのために熱心を持っています。私の行為を見てください。けれども、ほかのイスラエル人はもう救いようのないのです。」ということです。
ところが、神様はエリヤにこう言われました。
わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。(列王記第一19:18)
だから、パウロはこう言いました。
「エリヤの時代と同じように、この時代にも、ユダヤ人の中には、神様に忠実であり、メシアであるイエス様に仕える残された信じる者たちがいます。
そして、私たちと同じように、そのユダヤ人たちも恵みによって選ばれました。」(ローマ人への手紙11:5)
そして、パウロは私たちに思い出させます。
恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。(6)
エリヤのように、多くのクリスチャンは、自分の行為によって救われると思っています。つまり、頭では恵みによって救われたことを理解しているかもしれませんが、心の奥では、他の人よりも優れているから救われたのだと思ってしまうのです。
けれども、パウロによれば、そのような考え方は間違っています。救いは恵みに値しない者に与えられるものです。
エリヤもまた、神様の恵みに値しませんでした。それでも、その恵みを受けました。
イゼベルに脅かされたとき、エリヤは神様に怒り、苦々しい思いを抱き、最終的に落ち込んでしまいました。それにもかかわらず、神様は手を伸ばしてエリヤを励まし、強めてくださいました。
私たちも、神様の恵みに値しません。けれども、神様は私たちに手を伸ばし、救ってくださいました。
だから、私たちはユダヤ人を見下すことはできません。私たち全員が、恵みによって救われたのです。
それで、パウロはユダヤ人を折られたオリーブの木の枝に例え、私たちを接ぎ木された枝に例えました。
けれども、パウロはこう言います。
あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。
そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。
思い上がることなく、むしろ恐れなさい。もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。
倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。
ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。(18-22)
もう一度、パウロのポイントは、私たち全員が恵みによって救われたことを述べています。私たちの行いによって救われたのではなく、イエス様の十字架の御業によって救われたのです。私たちにできたことは、その御業を信じることだけです。
だからこそ、私たちにはプライドの余裕などありません。
だから、イエス様を信じないユダヤ人を批判する人は、自分自身を振り返るべきです。彼らは自らにこう問うべきです。
「私は信仰と恵みによって立っているのか。それとも、自分の行いに頼っているのか。もし自分の行いによって立っているなら、私は破滅へと向かっている。しかし、恵みによって立つなら、そこにプライドの余裕はまったくない。」
あなたはユダヤ人を見下さないかもしれません。けれども、ほかの人々を見下してはいないでしょうか。自分は彼らよりも優れていると思ってはいないでしょうか。
そのような考え方は誤っています。もしあなたが他の人よりも優れているなら、恵みはもはや恵みではなく、あなたの救いは当然の報酬になってしまうでしょう。
だから、謙遜な態度を持ち、神様に感謝してください。神様の国では、私たちにはプライドの余裕などないのです。
