これは、聖書の中で最も有名な箇所の一つです。パウロはこう語りました。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ人への手紙12:1)
「ですから」などの接続詞を見たときは、それ以前の言葉を読むのがよいでしょう。パウロはこう語りました。
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ人への手紙11:36)
「すべてのもの」という言葉について少し考えてみてください。この表現には、私たち自身も含まれています。
私たちは神様の計画によって造られました。神様の力によって形作られ、神様の栄光のために造られたのです。そして、最終的には神様の御前に立ち、裁きを受けます。
多くの人々はこう言います。
「これは私の人生だ。自分の思うままに生きる権利がある。」
けれども、それは真実の半分に過ぎません。もちろん、神様は私たちに自由意志を与えてくださいました。だから、その意味では、私たちは自分の選択によって生きる権利を持っています。
とはいえ、私たちの人生は本当に私たち自身のものなのでしょうか。
私たちは神様の力によって造られ、神様の目的のために存在しています。
だから、パウロはこう語ります。
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」
それこそが、私たちにふさわしい礼拝なのです。
要するに、私たちは神様の力によって造られ、神様の目的のために造られたのだから、神様に自分のからだを生きた捧げものとしてささげるのは当然のことです。
では、「生きた捧げもの」とはどういう意味でしょうか。私たちは神様のために死ぬべきなのでしょうか。
確かに神様のために命を捧げる人もいますが、それはパウロの言うところではありません。パウロは、私たちが「生きた捧げもの」になるべきだと語っています。
「生きた捧げもの」について話すとき、私はよく結婚の比喩を使います。
結婚では、夫と妻が互いに自分自身を相手に捧げ合います。もちろん、私の妻は私が彼女のために喜んで命を捧げると聞けば嬉しいでしょう。
けれども、それ以上に、彼女は私が生き続けることを望むはずです。つまり、私が自分自身をほかの女性に捧げず、彼女だけに捧げることを望むのです。
さらに、妻は私が彼女を喜ばせたいと思うほどに、私が彼女を愛することを望みます。当然、私も妻から同じことを望みます。
そして、夫と妻が互いに生きたささげものとして自分自身を捧げ合うと、その結婚はうまくいきます。
同じように、もし私たちが喜んで神様のために命を捧げたいと思うなら、神様は喜ばれるでしょう。それでも、それ以上に、神様は生きたささげものを望まれます。
神様は、私たちが毎日すべてを捧げることを望んでおられます。また、私たちが神様を喜ばせたいと思うほどに、神様を愛することを望んでおられます。
では、なぜ私たちは自分自身を神様に生きた捧げものとしてささげたいと思うのでしょうか。それは、神様が私たちを憐れんでくださったからです。
神様は人間となられ、十字架で私たちのために死んでくださいました。私たちがまだ罪人であり、神様に反抗していたにもかかわらず、イエス様は私たちの罪のために命を捧げるほどに愛してくださいました。
そして、イエス様の死によって、私たちは神様との和解ができるのです。
私たちは神様の愛を知り、神様を愛しているのだから、自分自身を生きた捧げものとしてささげるのは当然のことでしょう。だから、私たちは毎日、神様を喜ばせたいと願います。
これこそが、生きた捧げものです。
あなたはどうですか。あなたは生きた捧げものとして歩んでいるでしょうか。
