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ローマ人への手紙

兄弟たちと姉妹たちを裁く?

ローマ人への手紙14章

教会における大きな問題の一つは、兄弟姉妹が互いに裁き合うことです。

ただし、誤解しないでください。私は明確に善悪が分かれる問題について話しているのではありません。

クリスチャンが意図的に罪を犯すとき、パウロはためらわずにその行為を裁きました。コリント人への手紙 第一 5章では、その具体的な例が示されています。

けれども、ある問題については、聖書の著者たちが何も言及していない場合があります。また、彼らが判断を個々のクリスチャンに委ねることもあります。

今日の箇所では、パウロはそうした個々のクリスチャンに委ねられる問題の一つについて語っています。

パウロの時代、クリスチャンたちは肉を食べることについて議論していました。なぜなら、ローマ帝国において、多くの肉が市場で売られる前に、偶像に捧げられていたからです。

他のクリスチャンたちは宗教的な祝日について議論しました。特に、ユダヤ人ではないクリスチャンたちがユダヤ教の祝日を祝うべきかどうかを議論しました。また、異邦人のクリスチャンたちが安息日を祝うべきかどうかについても議論がありました。

パウロにとって、その議論は白黒をつけるものではありませんでした。そのため、パウロは彼らに対し、そのようなことについて裁いてはならないと語りました。(1)

パウロによれば、彼らはそのことについて自分の良心に従うべきでした。

したがって、ユダヤ人たちがユダヤ教の祝日や安息日を祝うべきだと考えるならば、そうすべきです。なぜなら、彼らにとって急にその祝日や安息日を祝うのをやめることは、神様を侮る行為に等しいからです。

一方で、異邦人たちはユダヤ教の祝日は自分たちとは関係がないと考えました。

この議論について、パウロはユダヤ人のクリスチャンたちも異邦人のクリスチャンたちも責めることはありませんでした。むしろ、パウロはこう語りました。

ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。

食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。(ローマ人への手紙14:5-6)

つまり、あなたの信仰によってユダヤ教の祝日が大切だと思うなら、それを祝うべきです。神様はあなたの心を見て、喜ばれるでしょう。けれども、もしあなたがすべての日を同じように考えるなら、それでも問題ありません。

偶像に捧げられた肉について心配する人々に、パウロはこう語りました。

私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。(14)

つまり、「私の考えでは、偶像に捧げられた肉を食べても問題ありません。けれども、もしあなたがそのことを本当に気にするなら、食べないほうがよいでしょう。」

さらに、パウロは次のようにも語っています。

食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。(3-4)

また、

自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。次のように書かれています。

「わたしは生きている──主のことば──。

すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」

ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。

いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(10-13)

私は、パウロの言葉に何かを付け加える必要はないと思います。彼の言葉だけで十分に明確だからです。

パウロの要点は、神様こそが私たちの主であるということです。そして、私たちすべてが神様の裁きの座の前に立つことになります。

だから、白黒はっきりしない問題について、私たちは互いに裁き合うべきではありません。その裁きを神様に委ねることが求められています。

私は十代の頃、ほかのクリスチャンの高校生たちとともに働き、バイブル・クラブで子供たちに教えました。その前には合宿があり、どのようにクラブを運営するかについて学びました。

休憩時間、ある人はトランプをしていました。当然ながら、彼らはギャンブルをしていたわけではありません。

けれども、一人の人はそのことをとても気にしました。なぜなら、彼女のご両親は「トランプをすることは良くない」と教えていたからです。

ほかのクリスチャンたちはそれを聞くと、「そんなの馬鹿げている。律法主義的な考え方だ」と言いました。

しかし、もう一人のクリスチャンはこう答えました。 「いや、私たちは彼女の良心を重んじるべきです。」

そのため、私たちは合宿の間、トランプをやめることにしました。

私たちは彼女を裁くことなく、彼女もまた自分の意見を述べましたが、私たちを裁くことはありませんでした。こうして、私たちは平和を保ち、神様のために素晴らしい伝道の働きをすることができました。

これこそが、パウロのポイントです。私たちは常に完全に同意できるわけではありません。だから、白黒はっきりしない問題については、互いに受け入れ合うべきです。

そうすれば、キリストのために、この世に大きな影響を与えることができるのです。

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