ローマ13章で、パウロはこう語りました。
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。(ローマ人への手紙13:8)
また、
愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。(13:10)
14章では、この教えの重要な実践的な応用を見ることができます。
以前の記事で触れたように、あるローマのクリスチャンたちは偶像に捧げられた肉を食べることを気にしていました。それだけでなく、ほかのクリスチャンたちはぶどう酒を飲むことを良くないと考えていたようです。
現代では、私たちは偶像に捧げられた食べ物を食べることについて意識する機会が少ないかもしれません。けれども、飲酒が罪だと考えるクリスチャンは今も存在します。
もちろん、聖書によれば、酔うことは罪です。とはいえ、聖書は禁酒を義務づけているわけではありません。
それにもかかわらず、一部のクリスチャンはお酒を飲む人を裁きます。その一方で、お酒を飲むクリスチャンが、飲まないクリスチャンを律法主義的だと考え、責めることもあります。
だからこそ、パウロは明確にこう語ります。これらの問題について、互いに裁き合ってはなりません。その裁きは神様に委ねるべきです。
彼らはあなたのしもべではなく、神様のしもべなのです。彼らが責任を問われるのは、あなたではなく神様なのです。
それでも、パウロは次のように語ります。
もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。
キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。(ローマ人への手紙14:15)
また、
こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。(13)
また、
ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。
すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。
肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。(19-21)
要するに、クリスチャンとして、私たちは自分勝手に生きてはいけません。私たちは、神様の前で責任を問われることを常に覚えているべきです。そして、神様は私たちに、兄弟姉妹を愛するように命じられました。
けれども、もしあなたの行動によって兄弟姉妹が心を痛めているなら、あなたは愛に従って歩んでいるとは言えません。さらに、あなたの行いによって、彼らが自分の良心に反し、罪に陥るかもしれません。
パウロは次のように語っています。
しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(23)
次の記事では、パウロの言葉をより具体的に説明しますが、その要点は、私たちが他者の良心に反する行動を強いるべきではないということです。
ハワイにいたとき、私が通っていた教会で、ある話を聞きました。ある日、数人のクリスチャンの友人たちが集まり、一緒にビールを飲んでいました。けれども、彼らが知らなかったのは、その中の一人がアルコール依存症だったということです。
その人はアルコールを断っていましたが、友人たちが飲み始めると、彼も飲み始めてしまいました。しかし、ほかの友人たちと違い、一度飲み始めると止めることができず、酔ってしまいました。
もちろん、彼らは故意にその兄弟をつまずかせたわけではありません。とはういえ、相手を考えずに自分の自由を行使すれば、そのような問題が生じる可能性があります。
だからこそ、自分勝手な考え方を捨てましょう。
もし私たちの行動によって彼らが心を痛めているなら、彼らの前ではその行動を控えましょう。私たちは彼らの弱さを思いやり、愛をもって接するべきです。なぜなら、イエス様は彼らのためにも命を捧げられたからです。
