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ローマ人への手紙

良心に反すること

ローマ人への手紙14章

この箇所を終えて15章へ進む前に、私はもう一つの重要なことについて触れたいと思います。それは、私たちの動機です。私たちの行動の根底にある動機とは何でしょうか。

パウロは、私たちがどのような動機を持つべきかについて明確に教えています。彼はこう語りました。

特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。

食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。

ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。(ローマ人への手紙14:6-9)

つまり、私たちは自分のためではなく、イエス様のために生きるべきです。

したがって、ある日を尊ぶのであれば、その理由が単なる伝統であってはなりません。むしろ、イエス様への愛ゆえに、その日を尊ぶべきです。

また、食べたり飲んだりするとき、自分の満足だけを考えるのではなく、神様への感謝の心を持つべきです。

要するに、私たちは何をするにも、神様のために行うべきです。別の箇所で、パウロは次のように語っています。

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(第一コリント10:31)

私たちがそのような心を持たなければ、それは罪となります。偶像に捧げられた肉について、パウロは次のように語っています。

しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ人への手紙14:23)

この箇所では、パウロは偶像に捧げられた肉を食べることを気にする人々について語っています。彼らはその肉を食べながら、それが偶像に捧げられたものであることを忘れることができませんでした。

そのため、彼らは肉を食べる際に神様への感謝の心を持つことができず、むしろ心の中でこう思い続けていました。

「これはいけない。この肉は偶像に捧げられたものだ。これを食べれば、私は罪を犯してしまう。」

したがって、彼らにとって、その肉を食べることは罪となりました。なぜなら、自分たちがそれを悪いことだと考えながら、それでも食べてしまったからです。そのような態度は神様を決して喜ばせません。

では、このことから何が学べるでしょうか。 私たちは決して自分の良心に反して行動してはならないということです。

もし自分の良心が痛むなら、その行為を避けるべきです。たとえ他のクリスチャンがその行為を問題ないと考えていたとしても、自分自身の良心に従い、行わないようにすべきです。

何をするにも、私たちはその行動が神様を喜ばせるものであると確信を持たなくてはなりません。

しかし、注意が必要です。確信を持っていても、それが本当に神様を喜ばせているとは限りません。

だからこそ、私たちは聖書を学び続ける必要があります。聖書の教えに基づいて確信を持つことができます。

ただし、白黒はっきりしない問題について考えるときは、自分の良心に従うべきです。そして、神様が私たちの良心をより正しく形成し続けてくださるように祈りましょう。

そうすれば、私たちは本当に神様を喜ばせることができるのです。

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