クリスチャンがリーダーに感心し、模範として見上げるのは自然なことです。なぜなら、彼らは長年イエス様に従い、豊かな知恵と知識を持っているはずだからです。さらに、私たちは彼らと直接会い、話すこともできます。
もちろん、人を模範として見上げること自体は悪いことではありません。
ところが、もし私たちが彼らをイエス様の立場にまで引き上げるなら、それは危険です。なぜなら、私たちはイエス様ではなく、そのリーダーに従い始めてしまうからです。そして、そのリーダーがイエス様よりも私たちの模範となってしまいます。
こうなると、教会の分裂が生じやすくなります。コリントのクリスチャンたちはまさにこの問題を抱えていました。
ある人々は「私はパウロにつく」と言い、ほかの人々は「私はアポロにつく」と言い、さらに別の人々は「私はケファ(つまり、ペテロ)につく」と言いました。
そこで、パウロは皮肉を込めて語ったのです。
キリストが分割されたのですか。
パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(コリント人への手紙1:13)
要するに、「いったい誰に従っているのか。」
第3章で、パウロは次のように語りました。
アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられた通りのことをしたのです。
私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です。(3:5-7)
簡単に言えば、「人を神様の立場にまで引き上げるのはやめなさい。その人々はただ神様のしもべなのです。主人よりもしもべを大切にする人はいません。
だからこそ、教会のリーダーたちがしもべにすぎないのなら、どうして彼らを神様の立場にまで引き上げるのでしょうか。」ということです。
それでも、多くのクリスチャンはそうしてしまいます。そのため、多くの教会にはさまざまな分裂が生じています。
さらに、人を神様の立場に上げることには、もう一つの問題があります。それは、彼らがただの人間であるがゆえに、最終的には私たちを失望させてしまうということです。
もし、私たちの信仰が神様ではなく人に基づいているなら、その人が失敗したり、私たちを落胆させたりすると、私たちの信仰そのものが揺らいでしまうかもしれません。
だから、人がどれほど敬虔であろうとも、私たちのために死んで復活されたイエス様の立場に引き上げることはしてはなりません。
牧師を比較しないでください。どの牧師がより偉大かを議論することも避けましょう。
神様は彼らそれぞれに働きを与えておられます。私たちには彼らを裁く権利はなく、また他の牧師と比較する権利もありません。その判断は彼らの主であるイエス様に委ねましょう。
そして、自分の信仰を他の人の信仰に基づけるべきではありません。むしろ、自分の信仰と希望は神様にこそ基づくべきです。
もし私たちの信仰を人に基づけてしまうなら、最終的に失望することになります。しかし、イエス様に信頼するなら、決して失望させられることはありません。(ローマ書10:11)
