第18節を読んだとき、パウロの言葉は私の心に深く響きました。
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(コリント人への手紙第一1:18)
私は子供のころからクリスチャンだったので、十字架の言葉(つまり、十字架のメッセージ)は私にとって当たり前のものでした。幼い頃からそのメッセージを教えられ、それを信じてきました。
とはいえ、もし誰かが「あなたの救いは電気椅子のメッセージによるものです」と言ったり、「あなたの救いは絞縄のメッセージによるものです」と言ったりしたら、私はその人が正気ではないと思うでしょう。
同じように、ユダヤ人やギリシア人たちはパウロのメッセージを聞いたとき、彼の言葉が理解できず、彼の頭がおかしいと思ったのです。
パウロは次のように語りました。
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを述べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとってはおろかなことです。。。(22-23)
神様がさまざまな奇跡を通してイスラエルの民をエジプトから救い出されたように、ユダヤ人は神様が力を振るい、彼らを再び救い出されることを期待していました。
神様がモーセを通して数々のしるしを行い、エジプトの軍隊を滅ぼされたため、ユダヤ人はメシアが同じようなしるしを行い、ローマ帝国を滅ぼすことを望んでいました。
しかし、パウロが宣べ伝えた救いのメッセージは、ローマの十字架にかけられて死なれたメシアについてのものでした。ローマ人はそのメシアを打ち、十字架につけて殺しました。
そのため、多くのユダヤ人はイエス様がメシアであることを受け入れることができませんでした。
一方で、ギリシア人は哲学に深く感銘を受けていました。そのため、イエス様の教えが彼らの思考に挑戦するものであれば、興味を持ったでしょう。
ところが、パウロがアテネでイエス様について語ったとき、彼が話したのはイエス様の教えではなく、イエス様の死と復活についてでした。そのため、彼らはパウロの言葉をすぐに拒み、「このパウロは正気ではない」と思ったのです。(使徒の働き17:31-32)
自分の考えや知恵に固執しながら、神様の知恵を求めることは大きな問題です。そのような姿勢では、神様が私たちの期待に沿うことを求めてしまいます。神様の言葉と行いが私たちの知恵と論理に適合することを求めてしまうのです。
そして、もし神様の知恵や行いが私たちの知恵や考えに合わない場合、神様の言葉と行いを愚かだと判断し、退けてしまいます。
しかし、パウロは次のように語ります。
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(25)
私は、神様の行いとその理由が分からないときがあることを率直に認めます。例えば、なぜイエス様の十字架の働きが私たちの罪の代価を支払うことができるのでしょうか。その具体的な説明を知りたいと思います。
なぜ、一人の行いがすべてのクリスチャンの罪を覆うことができるのでしょうか。私は完全には理解できません。
これまで多くの説明や描写を聞いてきたため、ある程度は分かります。けれども、それと同時に、なぜある人々がこの教えを愚かだと考え、信じようとしないのかも理解できます。
しかし、神様は、私たちが愚かだと思うものが実際には賢明であることを証明されます。私たちが神様の弱さを見出したと思うとき、神様はその弱さこそが力であることを示されるのです。
そして最終的に、神様は「知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る。」(19)
だから、パウロは問いかけます。
知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(20-21)
私たちは自分の知恵や条件によって神様を見つけることはできません。なぜなら、私たちの考えはあまりにも限られているからです。もし神様を見出したいと願うなら、私たちは神様とその知恵に従わなくてはなりません。
最初のステップは、イエス様を主として認めることです。なぜなら、十字架につけられたイエス様こそが私たちにとって神様の力と知恵だからです。(24)
イエス様は、私たちを救う神様の力です。そして、イエス様は人間となった神様の知恵です。その知恵は人間の知恵をはるかに超えています。
今、イエス様に従いませんか。
