以前の記事で、私は「寛容」について述べました。「寛容」という言葉は、アメリカ人にとっては一種の合言葉のようなものです。
もちろん、ある意味で寛容は素晴らしいことです。たとえば、相手と意見が異なっていても、互いに尊敬し合い、良好な関係を築くことができるなら、それは非常に価値のあることです。
私たちクリスチャンは、当然ながらノン・クリスチャンに対して寛容であるべきです。彼らは私たちと同じ信仰を持っていないため、私たちと同じように振る舞うことは期待できません。
そのことを理解しつつ、彼らを愛し、共に時間を過ごし、福音を伝え、彼らのために祈るべきです。
イエス様はそのようにされました。イエス様は「罪びとの友」と呼ばれていました。実際、宗教的な人々が反感を抱くほど、イエス様は罪人たちと積極的に時間を過ごされました。
それでも、パウロははっきりと語ります。自らをクリスチャンだと主張しながら厚かましく罪を犯す者に対して、私たちは安易に寛容であってはなりません。
けれども、ある教会は「愛」と「受け入れ」という名のもとに、そうした振る舞いを許容してしまうことがあります。コリントの人々もそのようにしていたようです。
ある人は、自分をクリスチャンだと主張しながら、母と関係を持っていました。もしかすると、それは実の母ではなく義理の母だったかもしれません。一般のコリントの人々でも、そのような関係を容認していませんでした。
それでも、コリントの教会はこうした態度をとっていたようです。
「私たちは愛に満ちた教会です。私たちはすぐに人を許し、受け入れます。私たちはとても寛容な教会なので、たとえ義理の母と関係を持っていたとしても、その人を受け入れます。」
この報告を聞いたパウロは、深く驚きました。そして、彼は次のように語りました。
あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。
新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。
ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。(コリント人への手紙第一5:6-8)
聖書では、パン種は罪の比喩とされています。そのため、過ぎ越し祭りの時、ユダヤ人たちはパン種のないパンを食べました。
何百年後、過ぎ越しの祭りの時に、イエス様はパンを裂いて「これは私の体だ」と言われました。そのパンは、イエス様の罪のない人生を象徴しています。イエス様は罪を犯さなかったにもかかわらず、私たちのために命を捧げてくださいました。
そこで、パウロはコリントの人々に次のように語りました。
「もしその罪を放置すれば、やがて教会全体に広がってしまいます。もし、このクリスチャンが厚かましく罪を犯しているにもかかわらず、あなたたちがその振る舞いを容認するなら、他の人々もその模範に倣い始めるでしょう。」
だから、その悪意と邪悪のパン種を取り除き、誠実と真実に満ちた教会となりなさい。
パウロはさらに続けて語りました。
私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。(11)
それは厳しい言葉です。多くの教会は今日、その言葉を愛の言葉とは見なしません。けれども、パウロの言葉は極めて明確です。
ただし、注意が必要です。パウロは、ノン・クリスチャンの罪人と、厚かましく罪を犯すクリスチャンを区別しています。
パウロは次のように語りました。
外部の人たちをさばくことは、私がすべきことでしょうか。(それは違います。)
あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。(もちろん。)(12)
そしてパウロはこう言います。
外部の人たちは神がおさばきになります。「あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。(13)」
教会の人々は罪人を愛するべきでしょうか。当然です。
しかし、愛の名のもとに、クリスチャンの厚かましい罪を許容すべきでしょうか。それは許されることではありません。
それでも、明日、私はさらに詳しく説明することがあると思います。どうぞお楽しみに。
