パウロの書簡の中で、一つの重要なテーマは、私たちが律法から解放されていることです。私たちはもはや律法の下にはなく、恵みの下にあるのです。
けれども、現代の人々と同様に、パウロの時代の人々もその教えを曲げてしまいました。
コリントの人々は故意に罪を犯し、互いに傷つけ合っていたため、パウロは彼らを厳しく戒めました。
そこで、パウロは次のように語りました。
あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。
思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。(コリント人への手紙第一6:9-10)
コリントの人々はどのように反応したのでしょうか。彼らはこう言いました。
「でもね、パウロ。あなたは『すべてのことが私には許されている』と言いましたよね。だったら、罪を犯してもいいんじゃないですか?結局、これは私の人生でしょう?」
けれども、パウロは答えました。
「すべてのことが許されているかもしれない。しかし、すべてが益となるわけではありません。」(12)
8章では、一つの例が示されています。
偶像に捧げられた食べ物を食べること自体は罪ではありません。とはいえ、もしあなたの兄弟がそれを見て躓いてしまうと分かっているなら、あなたはそのような食べ物を食べてはならないのです。それは兄弟にとって益にならないからです。
さらに、パウロは続けます。「すべてのことがあなたに許されている。それでも、あなたは何ものにも支配されてはなりません。特に、罪に支配されてはなりません。」(12)
ローマ人への手紙では、パウロはさらに詳しく説明します。
あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。
つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。(ローマ人への手紙6:16)
多くの人は、最初は自ら罪を選ぶが、やがてその罪の奴隷となってしまいます。
飽食はその一例です。ポルノもまた一例です。人々は故意にその罪に耽りますが、ある時、自分の行動をもはやコントロールできなくなっていることに気づきます。
医師が「体重を減らさなければならない。そうしなければ、必ず心臓発作を起こすでしょう」と警告しても、彼らは食生活を変えることができません。
または、結婚生活が困難になっても、ポルノをやめることができません。
あるコリントの人々はこう言いました。
「でも、神様の御心は私たちが食べることです。そのために私たちに胃袋を与えられました。また、神様は私たちを性的な存在として創造されました。それゆえ、私たちにはそのニーズを満たすことが必要です。なぜ、さまざまな制限が課されるのでしょうか。」
しかし、パウロが答えたのは、確かに私たちは胃袋を持ち、性的な存在であるものの、それらの欲求を満たすことが私たちの主な目的ではないということです。
私たちは単に自分のために生きるために創造されたのではありません。私たちは自分自身を喜ばせるためだけに存在するのではないのです。
そこで、パウロは次のように語りました。
「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」と言いますが、神は、そのどちらも滅ぼされます。(13a)
要するに、食べ物も腹も永遠のものではなく、一時的なものです。したがって、私たちはただ自分の腹を満たすために創造されたのではありません。
パウロは続けてこう言いました。
からだは淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主はからだのためにおられるのです。(13b)
つまり、私たちは罪を犯すためではなく、むしろ主を喜ばせるために創造されたのです。
私たちは主の宮となるように創造されました。そして、イエス様は私たちを贖うために、十字架で大きな代価を支払われました。
そこで、パウロは次のように書き記しました。
あなたがたは知らないのですか。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。(19-20)
キリストにある自由とは、私たちが自分のためだけに生き、罪に耽ることではありません。むしろ、それは私たちを滅ぼしていた罪から解放するものです。
したがって、私たちはもはや神様からの罰を恐れる必要はありません。むしろ、神様が私たちを愛しておられ、聖霊様が私たちのうちに住んでおられることを知り、安心して歩むことができます。そして、私たちが創造された本来の目的を全うするのです。
それは、神様を愛し、敬い、栄光を捧げることです。
あなたはどうでしょうか。あなたはどのように自分の自由を用いるでしょうか。
