もしパウロが現代の教会に来たら、彼は何を思うでしょうか。私はそのことを考えずにはいられません。
特に、パウロはノン・クリスチャンが聖餐式に参加するのを見たとき、どう感じるでしょうか。
ある教会では、ノン・クリスチャンの聖餐式への参加を禁止しています。一方で、ほかの教会(私の教会も含め)では、それを許可しています。
もしタイムスリップできるなら、新約聖書の時代に戻り、当時の教会で誰が聖餐式に参加していたのかを確かめたいと思います。それはクリスチャンだけだったのでしょうか。それとも、ノン・クリスチャンも参加していたのでしょうか。
なぜなら、14章でパウロは、ノン・クリスチャンが教会に来る可能性について語っていたからです。
そして、今日の箇所で、パウロはとても興味深いことを述べています。
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。(コリント人への手紙第一11:26)
興味深いのは、「告げ知らせる」という言葉です。新約聖書の著者たちは、この言葉を使うとき、ほとんどの場合、イエス様とその福音を伝えることについて語っています。
この箇所でも、パウロは「告げ知らせる」という言葉を同じ意味で用いています。聖餐式を行うとき、私たちは人々に福音を告げ知らせているのです。
けれども、私たちは誰に福音を告げ知らせているのでしょうか。私たち自身に?それもあり得ます。なぜなら、私たちは皆、時には福音の基本的な教えが必要だからです。
また、もしかするとパウロは、ノン・クリスチャンが聖餐式に参加することを認識していたのかもしれません。
そのため、聖餐式を行うとき、私たちはもちろんイエス様の十字架の御業を覚えています。とはいえ、それだけではなく、ノン・クリスチャンにもイエス様の死を告げ知らせているのです。
私たちは彼らにこう伝えています。 「イエス様はあなたのために死なれました。あなたの罪が赦されるために、そしてあなたが新しい命を得るために、イエス様は死なれたのです。私たちはあなたにイエス様を信じる機会を与えます。あなたはどう応答するでしょうか。」
パウロによれば、彼らがパンを食べ、ぶどう酒を飲みながらも、イエス様を信じることを拒むなら、どうなるでしょうか。
したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。(27)
どうしてでしょうか。それは、彼らが福音を聞きながらも、その福音を拒絶したからです。
けれども、ここではっきりと言わなくてはならないことがあります。
パウロがこれを述べたとき、ノン・クリスチャンについて語っていたのではありません。彼は、貧しいクリスチャンを軽蔑するクリスチャンについて話しています。彼らの振る舞いによって、聖餐式は汚されてしまいました。
だから、32節でパウロは、悪い態度を持ちながら聖餐式に参加するクリスチャンへの懲らしめと、イエス様を拒絶するノン・クリスチャンへの裁きを区別しています。
パウロは、そのクリスチャンの救いを疑うことなく、むしろ彼らを兄弟と呼び続けています。
つまり、パウロの意図はこうです。
「自分自身を吟味しなさい。聖餐式に参加するときは、正しい態度を持ちなさい。あなたがたが主の懲らしめを受けないように、自分の兄弟を正しく扱いなさい。
もし兄弟に罪を犯すなら、それは主のからだと血に対する罪を犯すことになるのです。」(27-34)
少し不思議なことですが、パウロはノン・クリスチャンが聖餐式に参加できるかどうかについて、一切言及していませんでした。
もしかすると、彼はその参加の禁止が当然のことだと思っていたのかもしれません。または、その参加がそれほど重要な問題ではないと考えていたのかもしれません。
しかし、教会がノン・クリスチャンの参加を認めようとするなら、理解すべきことがあります。
それは、聖餐式においてノン・クリスチャンの参加を許すことは、単に彼らをイエス様を信じるように招くことにとどまらず、同時に警告を伝えることでもあるということです。
私たちは彼らにこう語ります。
「福音とは、イエス様があなたの罪のために死なれたことです。イエス様を通して永遠の命を得ることができます。イエス様をあなたの主として受け入れませんか。」
それを聞いて信仰を持ち、パンを食べ、ぶどう酒を飲むノン・クリスチャンは救われます。けれども、不信を貫く者は、こう言っているのと同じです。
「私は、イエス様が私のために何をしてくださったかを理解しています。しかし、私はイエス様を拒絶し、聖餐式によって自分自身に対する裁きを食べ、また裁きを飲みます。」(29)
要するに、ノン・クリスチャンが聖餐式に参加するとき、彼らは「私は兄弟たちをどのように扱うか」と自問するのではなく、「私はイエス様を受け入れるか」と自問するのです。
だからこそ、ノン・クリスチャンの聖餐式への参加を許すなら、私たちは彼らに挑戦すべきかもしれません。 「イエス様はあなたの罪のために死なれました。あなたはどうしますか。」
