私が以前述べたように、聖餐式に参加するとき、私たちは自分自身を吟味しなくてはなりません。パウロはこう語りました。
したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。(コリント人への手紙第一11:27-30)
その最後の部分は、確かに考えさせられるものがあります。聖餐式を汚した結果、一部のコリント人が病にかかり、死んだとされています。
現代では、そのような直接的な裁きを見ることは少ないですが、教会の始まりの時期だったため、神様はその罪の深刻さをコリントのクリスチャンたちにはっきり示したのかもしれません。
イエス様は私たちの罪のために死なれましたが、それは私たちが故意に罪を犯してもよいということを意味するわけではありません。もしイエス様の十字架の働きを軽く考えるなら、私たちは主の懲らしめを受けることになるでしょう。
だからこそ、聖餐式に参加するときだけでなく、日々自分の心を吟味し続けることが大切なのだと思います。
ダビデのように、私たちはこう祈るべきです。
神よ、私を探り、私の心を知ってください。 私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24)
私たちは決してイエス様の十字架を当たり前のものとして受け止めてはなりません。
イエス様の十字架を、ただの玄関マットのように扱うのではなく、 むしろ、感謝をもってイエス様の前に跪きましょう。
そして、イエス様が私たちの罪を示されるなら、悔い改めましょう。 聖餐式に参加するときだけでなく、日々そのような心を持ち続けましょう。
