この箇所で、パウロはまだコリント教会の分裂について考えていたかもしれません。この手紙の中で、彼はすでに二度その問題について触れています。
パウロは、霊的な賜物がコリント教会を分裂させたとは述べていません。しかし、その賜物が分裂を引き起こす可能性があることは見ていたかもしれません。
実際、現代の教会でも同じような問題が見られます。
だから、パウロは冒頭から明確に語ります。霊的な賜物は教会を分裂させるためのものではなく、教会のメンバーたちを団結させるためのものです。
パウロはこう記しました。
さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。
奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。
働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。(コリント人への手紙第一12:4-6)
パウロの言葉から、三位一体が霊的な賜物に深く関わっていることが分かります。
異なる賜物がありますが、同じ御霊によって与えられます。
異なる奉仕がありますが、同じ主(イエス)に仕えます。
異なる働きがありますが、すべては同じ神(天の父)によって行われます。
パウロの意図はこうかもしれません。天の父、イエス様、聖霊様はそれぞれ異なる役割を持っておられますが、なお一つの神です。
同じように、私たちの賜物がそれぞれ異なっていても、私たちはなお一つの教会です。だから、私たちには心の一致が必要です。
7節で、パウロはこのことを明確に述べています。
皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。(7)
普通、私たちがプレゼントを受け取るとき、その贈り物は私たち自身の益のためです。けれども、霊的な賜物は異なります。それらは、すべての人の益のために与えられるものです。特に、教会の兄弟姉妹たちを支えるためのものです。
だからこそ、霊的な賜物について考えるとき、自分中心の考えを捨てるべきです。むしろ、その賜物をどのように用いて、周囲の人々に益をもたらせるかを考えるべきです。
このように、霊的な賜物に関しては、プライドや嫉妬の余地はありません。
パウロはこう記しました。
たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。
たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。(15-16)
けれども、ある人は他者の賜物をうらやみ、その感情に基づいて行動してしまうことがあります。
自分が神様から与えられた賜物を気に入らず、不満を抱き、苦々しい態度を持ってしまいます。
または、同じ賜物を持っているものの、他者の方がより豊かにそれを持っているため、嫉妬し、怒りを抱くこともあります。
その結果、彼らは相手に対しても、神様に対しても怒りを向けてしまいます。
しかし、逆の問題もあります。
パウロはこう記しました。
目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。(21)
要するに、より「重要な」賜物を持っている人は、他の人を取るに足りない存在として見下してしまいがちです。
どちらの態度も害を及ぼし、教会を分裂へと導きます。皮肉なことに、以前述べたように、賜物は本来、教会を一つにするために与えられたものです。
だからこそ、私たちは自分自身に問いかけるべきです。
「兄弟姉妹に対する私の態度は正しいだろうか。自分の賜物と他者の賜物に関する私の態度は、教会を分裂へと導くか、それとも一致へと導くだろうか。」
