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コリント人への手紙第一

私たちは他のクリスチャンをどう見るべきか

コリント人への手紙第一12:12-30

前回の記事では、私たちがどのように自分自身をキリストのからだの一部として見なすべきかについて話しました。では、私たちは他のクリスチャンたちをどのように見なすべきでしょうか。

パウロはこう書いています。

ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。(コリント人への手紙12:12-13)

パウロの言葉において、最も大切な真理は、私たちクリスチャンが一つのからだであるということです。もちろん、からだには多くの部分があります。しかし、私たちは一つのからだであり、互いに必要とし合っています。

また、パウロによれば、一つの御霊によって私たちはバプテスマを受け、一つの御霊を受けて、一つのからだとなりました。

さらに、同じ御霊が私たちをキリストのからだに置き、私たちの中で働いています。だから、どうして私たちは他のクリスチャンたちを見下すことができるでしょうか。

私たちが彼らを見るとき、彼らに住んでおられる御霊を見るはずです。どうして私たちは彼らに住んでおられる御霊を軽蔑できるでしょうか。どうして彼らの中で働いている御霊を見下すことができるでしょうか。

以前の記事で述べましたが、パウロによれば、私たちは他のクリスチャンに「あなたはいらない」と言うことはできません。私たちは皆、互いに必要とし合っているからです。

キリストのからだが正しく機能するためには、私たち一人ひとりが自分の役割を果たさなくてはなりません。私たちは皆、キリストのからだに欠かせない存在です。

さらに、パウロはこう語っています。

それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。(コリント人への手紙第一12:22)

数年前、バスケットボールをしていたとき、私は右手の薬指を骨折しました。それ以前は、自分の薬指の重要性を意識していませんでした。

しかし、薬指を負傷すると、その手で何も握ることができなくなり、メールを打つのも困難になりました。これまで簡単にできていた動作が、とても難しくなったのです。

パウロは続けてこう言いました。

また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。

こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。(23-24a)

例えば、足と手について考えてみてください。「美しい手」という表現はよく聞きますが、「美しい足」という表現はあまり聞いたことがありません。(「美しい脚」という表現なら聞いたことがあるかもしれませんが。)

それでも、一般的に手よりも足のほうがマッサージされることが多いでしょう。また、靴を選ぶときはスタイルだけでなく、履き心地も考えるでしょう。

だから、パウロはこの話を次のようにまとめています。

神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。(24b-25)

同じように配慮し合うこと。この言葉は、霊的な賜物に関する人のプライドや利己的な態度に反対します。

あなたは自分の霊的な賜物について考えるとき、主に自分自身の益を考えるでしょうか。それとも、相手の益を考えるでしょうか。自分自身に焦点を当てるでしょうか。それとも、他の人に焦点を当てるでしょうか。

イエス様のことを思い出してください。イエス様はさまざまな力を持っていましたが、自分自身に栄光を与えるためにその力を使うことはありませんでした。むしろ、いつも周りの人々のニーズを考えておられました。

パウロはさらに語っています。

一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。(26)

痛みは興味深いものです。痛みを感じると、私たちは痛んでいる部分に意識を向けます。体のほかの部分は問題ないかもしれませんが、指を骨折すると、「まあ、私は99%元気だ」とは思わず、「痛い!」と感じます。

私たちが他の人々を見るときも、同じように考えるべきです。彼らが悩んでいるとき、私たちは彼らを無視してはいけません。むしろ、寄り添い、助けるべきです。

パウロはこう語っています。

あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。(27)

だから、他のクリスチャンたちを見下してはいけません。神様は決してそうされないので、私たちもそうしてはいけません。

むしろ、彼らを神様の目で見るべきです。神様が大切にされる者として、彼らを尊重して扱うべきです。

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