私たちがただ求めるなら、神様はどれほど与えてくださるでしょうか。
多くの場合、私たちは自己中心的な態度に注意したり、自分の動機を疑ったりすることで、神様に願うのをためらいます。
私の言葉を誤解しないでください。もちろん、私たちは自分の動機を吟味するべきです。しかし、ためらわずに願ってもよいのです。もし願っている途中で、神様が私たちの誤った動機を示されるなら、もちろん私たちは悔い改めるべきです。
忘れないでください。神様はご自身の子供たちに良いものを与えることを喜ばれる方です。だから、願うとき、私たちは遠慮する必要はありません。
霊的な賜物も、恥ずかしがらずに願ってよいのです。だから、パウロはこう語っています。
あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。(コリント人への手紙第一12:31)
「より優れた賜物」とは何でしょうか。私は後でそのことについて話しますが、14章によれば、より優れた賜物とは、教会を成長させる賜物を指します(14:12)。
だから、霊的な賜物を求めるときは、教会を成長させることを考えるべきです。その賜物がどのようにあなたの評判を高めるか、また、あなたがどのような利益を得るかを考えてはいけません。
むしろ、どのように人々を祝福できるかについて考えるべきです。霊的な賜物について考えるときは、自分ではなく、周りの人々のことを考えるべきです。
また、もう一つ忘れてはならないことがあります。神様は御心のままに、私たちに賜物を与えてくださいます(11)。
キリストのからだの中で、私たちは神様から自分の役割を与えられています。だから、その役割を果たすために、神様は私たちに適切な賜物を与えてくださいます。
神様はそれ以上にも与えてくださるかもしれませんが、私たちが望むすべての賜物を与えてくださるとは約束されていません。
パウロはこう語っています。
皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。(29-30)
もちろん、その答えは「いいえ」です。
それでも、霊的な賜物を求めてもよいのです。特に、自分のミニストリーや役割を考えるとき、どの賜物が必要なのかを思い巡らし、その賜物を願うことが大切です。
そして、自分の役割を果たすために、神様が適切な賜物を与えてくださることを信じましょう。
どれほど神様が「はい、喜んで与えます」と答えられるかに驚くかもしれません。
