この箇所を読んだとき、興味深いことに気づきました。パウロが描く愛の姿は、コリントの人々の行動とは大きく異なっていました。
パウロによれば、愛は寛容であり、親切です。また、愛は礼儀に反することをせず、自分の利益を求めません。
けれども、聖餐式の後の晩餐では、金持ちは貧しい人々を差し置いて先に食事をし、良いものを食べ尽くしてしまいました。残り物があれば、貧しい人々はようやく食べることができました。(コリント人への手紙第一11:17-34)
さらに、良心が傷つきやすい人を気にせずに、コリントの人々は自分の「権利」を利用し、その兄弟姉妹を傷つけてしまいました。(8)
パウロによれば、愛はねたまず、自慢せず、高慢になりません。
けれども、コリントの教会では、メンバーたちは自分がどのリーダーに従うかを誇り、それをめぐって争いました。(1章、3章)
さらに、彼らは自分の持ち物を誇り、その結果、パウロを見下したようです。(4章)
しかし、神様はそのような方ではありません。私たちが何度失敗しても、神様は変わることなく親切であり、寛容です。
そして、神様は人間となられましたが、それは私たちを支配する王としてではなく、私たちの罪のために死ぬしもべとして来られました。
イエス様は悪を見て怒られましたが、真理を受け入れた人々を見て喜ばれました。
そして今、イエス様の十字架の働きによって、天の父は私たちが犯した罪を心に留められません。
むしろ、神様は私たちに恵みを与えてくださいます。神様は私たちを信じ、最善を望まれます。さらに、私たちに対する神様の愛は決して絶えることがありません。
私たちはそのような人になろうと努めるべきです。神様のように、私たちは他の人々を愛し、敬意をもって接するよう努めるべきです。
正直に言うと、私はその基準を満たしていません。けれども、その愛を持っていなければ、私の人生はむなしいものです。だから私は祈ります。「私が愛する者となれるように助けてください。」
