私は数えきれないほどこの箇所を読んできましたが、今回は改めてその意味を深く認識しました。つまり、この言葉をこれまでとは異なる方法で、自分の人生に当てはめてみたのです。
おそらく、あなたも聖書の言葉を自分の人生に適用することの大切さを理解していると思います。私たちは聖書を単なる小説や、時代遅れの道徳を説く本として読むのではなく、神様が私たちに語りかける言葉として読むべきです。
今日の箇所を適用すると、多くのクリスチャンは「愛」の代わりに自分の名前を入れて読みます。例えば、「ブルースは寛容であり、ブルースは親切です。」
もちろん、それは良いことです。そうすることで、自分の心を吟味し、その愛の特質を持っているかどうかを考えることができます。
しかし、今日この箇所を読んだとき、私は異なる方法で自分の人生に当てはめようと思いました。
たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、妻に対する愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、娘に対する愛がないなら、私は無に等しいのです。(1-2)
「妻」と「娘」を考えながら、自分の人生について振り返りました。私は異言では話しませんが、教会でよく説教をします。
しかし、もし私が妻を愛さないなら、私はただの騒がしいどらや、うるさいシンバルにすぎません。
もし私が聖書に精通し、神様の言葉を力強く伝えられたとしても、娘を愛さないなら、私は無に等しいのです。
だから私はこう思い始めました。
「私は本当に妻と娘を愛しているのだろうか。彼女たちに対して、私は寛容だろうか。私は親切だろうか。私は自分の利益を求めていないだろうか。私は苛立っていないだろうか。
私は彼女たちを信じているだろうか。彼女たちの最善を望んでいるだろうか。彼女たちのために私は耐え忍んでいるだろうか。」
正直に言うと、私はいつもそのように振る舞えているわけではありません。
もちろん、私は他の人の名前をこの箇所に当てはめることもできます。私は本当に同僚や教会のメンバーを愛しているだろうか。けれども、まずは妻との関係、そして娘との関係について考えることが重要だと思います。
あなたはどうでしょうか。あなたは本当に家族を愛していますか。
あなたはこの世界で素晴らしいことを成し遂げているかもしれません。また、教会で素晴らしい働きをしているかもしれません。けれども、もし自分の妻や子どもを愛していなければ、あなたは無に等しいのです。
この記事を読んでいるとき、神様はあなたに誰かの名前を思い起こさせているかもしれません。それは、あなたのご両親でしょうか。それとも、心の中に引っかかっている同僚や教会のメンバーでしょうか。
もし神様があなたの心に語りかけているなら、私はあなたが祈ることをおすすめします。その人を真に愛することができるように祈ってください。また、どのようにその人を愛するべきかを知ることができるように祈ってください。
主よ、私はただの騒がしいどらや、うるさいシンバルになりたくありません。どうすれば周りの人を愛することができるか、教えてください。私が妻と娘を心から愛することができるように助けてください。
また、他の人々をも愛することができるように導いてください。私は何度も失敗しますが、あなたのように愛したいと願っています。イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。
