この箇所を読んだとき、新たな気づきが私の心に響きました。それは、私たちの霊的な賜物が天国の片鱗であるということです。
パウロはこう語りました。
愛は決して絶えることがありません。
預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。(コリント人への手紙13:8-10)
パウロが語る賜物は、「不完全な賜物」です。おそらく、天国ではいくつかの賜物は続くでしょう。例えば、奉仕の賜物や、治める賜物、音楽の賜物は続くかもしれません。
けれども、預言はなくなります。なぜでしょうか。預言とは、基本的に神様の言葉を人々に伝えることです。ところが、天国では神様が直接私たちに語られるからです。
異言もなくなります。異言を通して、私たちは神様の御心に従って祈ることができます。けれども、天国では私たちはすでに神様の御心を知っています。
また、異言を通して、私たちは外国語で神様の栄光を伝えることができます。しかし、天国ではすべての人が神様を知っており、私たちは完全に互いを理解し合っています。
私たちの知識も不完全です。特に神様に関する知識は限られています。けれども、天国では私たちは神様のみ顔を直接仰ぎ見るのです。
この三つの賜物は、天国の片鱗です。今、私たちはある程度神様の声を聞くことができますが、天国でははっきりと聞こえるようになります。
神様とのコミュニケーション、そして周りの人々とのコミュニケーションも、今は限られています。しかし、天国では私たちのコミュニケーションは完全なものとなります。
私たちは今、部分的に神様を知っていますが、天国では神様を完全に知るようになります。
言い換えると、
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。(12)
私たちがこの世で目にするもののすべては、天国からのかすかな映しです。けれども、イエス様のみ顔を仰ぐとき、私たちはイエス様を完全に知るようになります。そして、神様が私たちに備えておられた本来の人生の計画を理解するようになるのです。
だから、私は希望を持っています。時として、この世界は悲しみに満ちた場所のように感じられます。
とはいえ、この世は、私たちの未来のぼんやりとした映しに過ぎません。さらに、この世は永遠にこのまま続くわけではありません。
だからこそ、私たちの霊的な賜物を見るとき、また、周囲の人々や被造物を見るとき、それらはただぼんやりとした映しであることを心に留めましょう。私たちには確かな希望があります。それは、
愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。
やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)
