13章におけるパウロの最後の言葉は興味深いものです。パウロは、私たちがイエス様のみ顔を仰ぐとき、どの賜物がなくなるのかについて語ったばかりでした。
しかし、13節では、天国に残るものについて語ります。
彼はこう言いました。
こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。(コリント人への手紙第一13:13)
天国でも信仰が残るというのは、興味深いことだと思います。なぜなら、私たちは神様のみ顔を直接仰ぐからです。
では、天においても信仰が必要なのはなぜでしょうか。もしかすると、天にある信仰は、この世にある信仰とは異なるのかもしれません。
私たちが地上にいる間、罪深い心のゆえに神様を信じることに苦労します。私たちの心の一部は神様を信じていますが、一部は信じきれていません。
マルコ9章では、ある父が自分の心の中でそのような葛藤を抱えていました。私たちは神様を見ることもできず、御声を直接聞くこともできないため、信じることは難しいのです。
けれども、私たちが天の父のもとへ行くと、神様を信じることがはるかに容易になります。神様のみ顔と愛を直接見ることで、私たちが神様を信じるのは当然のこととなるでしょう。私は今、そのような確信に満ちた信仰を持ちたいと願います。
また、天国に希望があるというのも少し不思議に思えます。何を望むことができるのでしょうか。私たちはすでに救われ、天国にいるのです。
とはいえ、天国にある希望は、この世の希望とは異なると思います。私たちが天国で苦しみ、救いを求めるわけではありません。
むしろ、私たちはすでに喜びを持っており、さらに将来においても深い喜びを抱く希望を持っています。なぜなら、私たちは神様が良い方であると信じているからです。
それでも、パウロによれば、その中で最も優れているのは愛です。なぜでしょうか。はっきりとは分かりませんが、もしかすると、その理由の一つは、希望と信仰は残るものの、形が少し変わるからかもしれません。
今の信仰の大きな要素は、目に見えないものを信じることです(へブル11:1)。しかし、天国では私たちは神様のみ顔を直接仰ぎます。
同様に、希望の大きな要素は、目に見えないものを待ち望むことです(ローマ8:24)。
けれども、キリストを見ると、私たちの最も大きな希望は完全に満たされます。キリストにあってすでに与えられたものと比べると、私たちがまだ望むものは取るに足りないものとなるでしょう。
その一方、天国では私たちの愛の形が変わるのではなく、むしろ、完全なものとなるのです。私たちの嫉妬やプライド、自己中心的な態度はすべて取り除かれ、愛はこれまで経験したどの愛よりも、さらに満ち溢れ、純粋なものとなるでしょう。
私はその日が待ち遠しいです。
